前回の長崎四国八十八ヶ所霊場巡りでは、私はどうしても外せない用事ができ、途中で抜けて残り5つの札所巡りを皆さんと一緒に参拝する事ができなかった。それで、今日は前回お参りできなかった5つの札所のお参りに行くことにした。
今日の巡りのスタート地点は「西トンネル口」バス停である。西トンネル口は日見トンネルの西口にあたる場所で、ここは長崎街道の長崎側からの日見峠登り口にあたる場所である。トンネルがまだできていなかった時代は、この峠を通って長崎に出入りしていたわけで、坂本龍馬もこの峠を通っている。私も久しぶりに古人の足跡をたどるつもりで峠を上っていくことにした。
案内に従って細い道を登っていく。これが昔の長崎街道である。ヒメジョオンが至る所に可愛らしく咲いている。繁殖力が強く雑草扱いされるのが惜しいくらいの可憐な花である。
舗装された細い道どんどん上っていくと、道は未舗装の山道に変わる。これが当時の長崎街道である。踏み固められた山道を進んでいくと山の中に石垣が現れる。案内板には「日見峠関番所跡」と書かれてある。案内板には「万延元年(1860)3月3日、大老井伊直弼が水戸藩の浪士らに襲撃された『桜田門外ノ変』の後、倒幕の機運が高まっていた幕末の混乱期に、江戸幕府は、当時の長崎の出入り口にあたる日見・西山・浦上・茂木の4箇所に関番所を設け、往来する人々を監視した。そして日見関番所は明治維新に伴い、明治2年(1869)に閉鎖された」と書かれてあった。
日見関番所跡を過ぎて下っていくと車道と交差する。これは「明治新道」と呼ばれる日見新道である。案内板によると「この道路は、明治15年(1882)に1年4ヶ月の工期と当時の金額で4万7千円という莫大な工費をかけて建設された新道である。これによって人力車や馬車が通る事ができるようになった。工事費を償還するために一人5厘、人力車2銭、馬車5銭を徴収した。これが、日本における有料道路の始まりとされ、明治17年(1884)から明治22年(1889)まで徴収が行われた」とある。
明治新道との交差点を通り越して、旧長崎街道を日見方面に下りていくと大きな石碑が建立されていた。この石碑は、天明4年(1784)に長崎の俳人たちが建立したもので、石碑には向井去来の句、「君が手も まじるなるべし 花薄」と刻まれている。向井去来は長崎生まれで8歳まで長崎で過ごし、京都に移住後、芭蕉の門人となり蕉門十哲の一人と称された人である。元禄2年(1689)に一時帰郷して長崎に蕉門俳諧を伝えた。この句は去来が長崎を離れるに際し、この地で見送る人達に対して詠んだものである。
石碑を後にして下りていくと視界が開けてきた。景色に中には高速道路が走り、向井去来が俳句を作った時代の面影は何もない。ただ、この場所は薄塚(ススキヅカ)という地名である。昔からススキが多く群生していた場所なのであろう。景色を眺めながら、見送る人たちが振る手と風で揺れるススキの穂が混ざり合っている姿を想像しながら下りていく。下り切ったところで大きな道路にでる。この大きな道路は日見峠にトンネルを通してできた道路である。このトンネルは大正15年(1926)に完成した全長642m、幅員4.7mの当時としては日本最大規模の日見トンネルである。
本日最初の札所である第72番朝日山水の平大師堂へ参拝する。ご本尊は大日如来である。お堂は鍵がかかっておりお堂の前で読経して参拝する。近くの花壇に鮮やかな菊の花を見つけて引き寄せられる。よく見ると菊の花ではなくてマリーゴールドみたいな感じもする。
次に第6番岩這薬師堂へ行く。岩這薬師堂のご本尊は観世音菩薩である。ここのお堂は寛政3年(1791)より存続していると書かれてある。読経して参拝する。近所の庭先にブーゲンビリア
がきれいな花を咲かせている。
続いて、第53番堺町阿弥陀堂へ参拝する。こちらのご本尊は阿弥陀如来である。お堂の周りはきれいに掃き清められている。地元の方によって大切にされていることがわかる。読経して参拝する。
次は第66番高比良大師堂を参拝する。四国の第66番雲辺寺は千手観音がご本尊であるが、こちらのご本尊は弘法大師である。読経の後、御宝号である南無大師遍照金剛を三返称える。お堂の横の空き地はオキザリスのピンクの花で覆われている。
今日最後の札所第7番日見山養国寺に到着。養国寺のご本尊は阿弥陀如来である。本堂に入り、本堂の阿弥陀如来のご尊顔を拝して、読経して参拝する。前回やり残した五つの札所の参拝を無事に終えることができた。今日の札所巡りでは日見峠越えという昔の長崎街道を歩くことができたことも喜びであった。また、札所巡りでいろんな花に出会えたことも喜びであった。天気に恵まれた喜びの多い1日であった。