ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「日本の面影」を読む その2

日本滞在一日目のことをラフカディオ・ハーンは次のように記している。
「日本の通りを駆け抜ける初めての人力車の旅はとても愉快な、驚きに満ちた体験だった。まるで何もかも、小さな妖精の国のようだ。人も物もみんな小さく、風変わりで神秘的である。青い屋根の小さな家屋、青いのれんのかかった小さな店舗、その前で青い着物姿の小柄な売り子が微笑んでいる。見渡す限り幟が翻り、濃紺ののれんが揺れている。かなや漢字の美しく書かれたその神秘的な動きを見下ろしながら、最初は嬉しいほど奇妙な混乱を覚えていた。ーーーー看板の文字はたいてい縦書きで、布の上で波打っているか、金色の塗り板の上できらめいている。着物の多数を占める濃紺色は、のれんにも同じように幅を利かせている。もちろん、明るい青、白、赤といった他の色味もちらほら見かけるが、緑や黄色のものはない。それから、店員の着物にも、のれんと同じ美しい文字があしらわれている。どんなに手の込んだ意匠でも、これだけの趣は出せないのではないだろうか。もちろん、装飾的な意図を持って手を加えているとはいえ、これらの表意文字には、意味のない図案では決して持ち得ない、均斉のとれた美しさが迫ってくる。従業員の背中に、(その法被を着た人が、どこの店や組に属しているかを示すために)紺地に白く、かなり遠くからでも簡単に読み取れるほど大きく文字が書かれていると、安物のパッとしない衣裳も、いっきに人の手が加わった輝きが添えられるのだ。

 名画のようなこの町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、青、金色のおびただしい漢字とかなの賜物ではなかろうかと思う。もしかしたら、英字がこの魔法の文字と入れ替わったらどうなるかという想像が一瞬、頭をよぎる。しかし、多少なりとも審美眼を持ち合わせている者なら、そんな考えにぞっとするはずだ。そして、私と同様に、日本語の中にアルファベットを導入しようという、あの忌まわしい「日本ローマ字会」という功利主義団体を許せなくなるであろう。

 表意文字が日本人の脳に作り出す印象というのは、ただの音声記号であるアルファベットの組み合わせが西洋人の脳に作り出す印象と、同じものではない。日本人にとって、文字とは、生き生きとした絵なのである。表意文字は生きているのだ。それは語りかけ、訴えてくる。そして、日本の通りの空間には、このように目に呼びかけ、人のように笑ったり、顔をしかめたりする、生きた文字があふれている。これらの文字が、西洋の生命を感じさせない文字と比べてどうなのかは、この極東に住んだことのある人にしかわからない。日本のかなや中国から入ってきた漢字について、書家やデザイナーの意匠の足かせになるような厳格なしきたりというものは何もない。それぞれが、より美しい書の形を求めて切磋琢磨するだけである。そして芸術家は、太古の昔から何代にも渡ってしのぎを削り、何世紀ものたゆまぬ努力と研究を重ねた結果、原始的だった象形文字表意文字を、名状しがたい美の域にへと発展させてきたのである。

 文字は、一画一画の筆の動きの集まりであるが、それぞれの筆づかいに気品、均斉、微妙な曲線の、何とも指摘しがたい秘技が隠されている。それこそ、まさに書に生命を吹き込むものであり、また書家が電光石火のごとく書き上げる瞬間にも、自分の一筆の初めから終わりまで、油断を許すことなく、理想の形を模索している証でもある。
 しかし、そういった筆づかいの技がすべてではない。その一点、一画の組み合わせの妙こそが魅力を生み出すのであり、日本人でさえ、その素晴らしさに圧倒されることは少なくない。日本の文字が持つ、不思議に個性的で、生気がある、秘伝的な面を鑑みると、聖人の書いた書の文字が化身し、扁額から出てきて人間と対話したという、書にまつわる素晴らしい伝説が生まれるのも、取り立てて不思議なことではない」

 彼の第一日目は、人力車で横浜の外国人居留地から日本人の住む町へ、初めて踏み込んだ時の話から始まっている。初めて見た日本の風景はおとぎ話の妖精の世界のように映ったようだ。さらに、その時、彼に強烈な印象を与えたのが日本語の「かなと漢字」である。表意文字である漢字が町にあふれて、日本の通りの空間には、人に呼びかけ、人のように笑ったり、顔をしかめたりする、生きた文字があふれていると書いている。
 
 私は英語圏に旅行に行って、町を歩いて英語の文字が溢れている状況に置かれたとき、異国に来た思うことはあっても、ハーンみたいに異国の文字に感激することはなかった。また中国を旅した時に、地図を頼りに町中をあれこれ散歩した時は、漢字が溢れていることに、何かわかったような気分になり安心した経験を持つが、町中を巡りながら文字そのものの美しさに感動するようなことはなかった。

 彼は町に溢れる漢字を見て、異国に来たという印象にとどまらず、漢字を見た印象について、町並みの美しさのほとんどは、戸口の側柱から障子に至るまで、あらゆるものを飾っている、白、黒、青、金色のおびただしい漢字とかなの賜物ではなかろうかと書いている。また、文字は、一画一画の筆の動きの集まりであるが、それぞれの筆づかいに気品、均斉、微妙な曲線の、何とも指摘しがたい秘技が隠されている。それこそ、まさに書に生命を吹き込むものであると書いている。

 彼と私の間に漢字を見た時の洞察力に大きな違いがあることを実感する。日本人として毎日漢字に接しながら生活している私にとって、漢字は当たり前すぎて、漢字が人に呼びかけたり、人のように笑ったり、顔をしかめたり、生きた文字があふれているというふうには特に感じない。私は漢字を見ても特には何も感じないようになってしまっているが、彼にとっては衝撃だったようだ。さらに、悪筆しか書けない私にとって、漢字は、意味が伝われば良いというレベルでしか書いてこなかったし、文字の美しさを求めることも諦めていた。

 彼の日本語の文字への認識の深さに驚くばかりである。彼はどのようにして、書に対しての深い洞察力を身に付けたのだろうか、書を含味鑑賞する能力をどこで身につけたのだろうかと不思議に思う。

「日本の面影」を読みながら、書について改めて認識を新たにした。知り合いに書をしている人がいるが、その方は古今の書を見ることが趣味で、いい書に出会ったら何時間でも見てて飽きないとおっしゃっておられた。ハーンもそのレベルでなかったかと思う。私も書の深淵を少しでも覗きたいと思った。まず、丁寧な字を書くことから始めようと思う。