ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

伊王島で運動を楽しむ

伊王島ヴィラオリンピカ

久しぶりに良い天気になった。先週は冬将軍が来て、その後も寒い日が続き家に籠る日が続いた。しかし、今日は運動不足解消に絶好の日である。伊王島の運動施設である「ヴィラオリンピカ」でボルダリングをしようと思い伊王島へ行った。

 

ヴィラオリンピカは身体を鍛えるジムの施設とスポーツゲームを楽しむための施設の両方の要素を備えている施設である。私はスポーツを楽しむコースを選択した。スポーツはボルダリングだけでなくバトミントン、卓球などいろんなスポーツを楽しむことができる。まずボルダリングから取り組んだ

私は五十肩で長いこと悩んでいたが、最近、肩の痛みが少し緩和してきた感じがしている。どれだけ肩が回復しているか今日の運動で確かめたいと思って、まずボルダリングに挑戦した。ボルダリングをやっても肩の痛みはあまり感じないが、握力や持つ力、支える力が思った以上に低下しているのがわかった。ホールドを掴みながら登っていくが、指の力も腕の力も弱く長く支えることができない。すぐに落下してしまう。オーバーハングしている場所はとても無理である。肩の調子はまだまだ完全ではないようだ。

 

左:ストラックアウト   右:フリースロー

続いて、ストラックアウトに挑戦する。ボールを投げて9枚の板を倒すゲームであるが、コントロールが悪く思うようにできない。また速球が投げられずテニスボールでは倒れないことも多かった。五十肩の影響で散々な成績である。フリースローも全力で投げてやっと入るが少し力が弱くなるとボールが届かない。

 

左:アーチェリー    右:フットダーツ

ソフトアーチェリーは真ん中の的に当てるのがなかなか難しい。弓を弾く右手の力が常に要求されるが何度もやっているうちに力尽きてしまう。これも五十肩の影響で成績は振るわない。フットダーツはサッカーボールを蹴って、できるだけ真ん中に当てるゲームである。足でやるから五十肩は関係ない。フットダーツだけは高得点を取るぞと意気込んで挑戦したが、ボールはほとんど3より上にはいかなかった。上がったと思っても中心から遠く外れる。腕も足も散々な成績であった。いろんなスポーツゲームをしながら汗をかいた。成績は振るわなかったが、スポーツゲームは楽しめた。いつの日かリベンジしたい。


青点をスタートして矢印方向に進み伊王島灯台まで行き青点に戻るコース。距離5.09km、最低高度1m、最高高度75m、総上昇高度108m、消費カロリー、562kcal、天気晴れ、気温10度、湿度54%

スポーツゲームを楽しんだ後、駐車場から伊王島灯台までウオーキングを行った。今日の天気は快晴である。運動をした後で全然寒くない。厚手のジャンパーを着ていたがそれを脱いでシャツ一枚で歩くことにした。

 

しばらく行くと、分岐点に出る。真っ直ぐ行くと伊王島灯台、右に行くと海水浴場と案内板に書かれている。今日のコースは海水浴場経由で灯台へ行くので右へ進む。海を眺めながらのウオーキングは気持ちがいい。

 

海水浴場の横を通って行く。1月の海水浴場は誰もいない。今日は風も穏やかで波もない。静かな海水浴場を過ぎていくと、その先に伊王島灯台が見えて来る。ここまでは平道であったがこれから約70mを上っていく。

 

細い道が上の方に続いている。今日一番の難所の上りである。きれいに舗装されていて歩きやすい。最初は軽快に上っていたが、だんだん歩みが遅くなる。休憩しながらゆっくり上っていく。しばらく行くと海水浴場が下の方に見えてくる。

 

伊王島灯台公園に到着。伊王島灯台にカメラを向けると、ちょうど長崎福江航路の貨物船が灯台の横を航行中である。「伊王島灯台は1866年(慶応2年)米英仏欄の4カ国と江戸条約を結んだときに設置が決められた全国八ヶ所の灯台の一つである。1870年(明治3年)に鉄造六角形の第一等不動灯として建設され、鉄造洋式灯台では日本で初めての構造物であった」と案内板にある。

 

灯台公園には明治初期の洋風建造物が残されている。この洋風建物は「吏員退息所と」呼ばれる灯台に付属する官舎である。設計者は明治政府のお雇い外国人で1877年(明治10年)に完成とある。この建物は灯台職員の休息所であり生活の場でもあった。各部屋に暖炉(マントルピース)を配置し、部屋、間取り数など、明治初期の退息所では他に見られない造りらしい。建築上、貴重な文化遺産として残されている。この洋風官舎は1877年に建てられ、1971年(昭和46年)灯台無人化されるまで95年間使用されたようだ。今でこそ、伊王島島内を車道が縦横に通り、港から灯台まで車で自由に行き来できるが、明治時代は伊王島には車道などなく、灯台への道など全くなかった。家族で赴任した灯台職員の生活は大変だったろうと思う。

 

灯台公園の中に一つの石柱を発見。文字を読むと「長崎要塞」と彫られている。案内板によると「明治政府は敵国艦隊の襲来に備えて、1899年(明治32年)にこの地を長崎伊王島要塞区域に指定し、海岸防御事業を進めた」と書かれていた。さらに半円形の遺構があり、野砲台跡と書かれている。「太平洋戦争中、ここに陸軍が駐屯し、榴弾砲を設置して敵機を大砲で撃ち落とす役割を担っていた」と書かれてあった。

 

灯台から長崎市内方面を見るが長崎市内は見えない。長崎港の入り口に架かる女神大橋の白い橋桁が見えるだけである。長崎市内は女神大橋の入江の奥になる。長崎港の開港は1571年(元亀2年)である。ポルトガル船が初めてこの伊王島の前を通って長崎港に入港して、今年は452年である。帰りのゲートに韓国語、英語、中国語、日本語でまた来てねと書かれている。誰でも自由に行き来できる平和であり続けて欲しいと切実に思う。久しぶりに太陽を浴びてウオーキングを楽しんだ。伊王島灯台へウオーキングは歴史を再確認するウオーキングであった。