ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「保坂正康さんの最後の講義」を見る その2

保坂正康さんの講義の続きを記す。
「悲惨な戦争を経験してきた人類において、それでも戦争が続いている、戦争が今なお止まらないということをどう思われますか?」講義の途中に若い世代から質問が出された。
その質問に保坂さんが答える。保坂さんの最後の講義は、歴史という過去から未来への提言へと続いていく。
ロシアとウクライナ戦争から私たちが考えるべきものが2つある。一つは今までの戦争論でいいのかということです。戦争論が変わったと言うことを全世界で共通認識にしていく必要がある。「戦争は政治の延長として起こる」というのが、今までのクラウゼビッツ(プロイセンの軍人、1780〜1831)の戦争論です。つまり、戦争とは異なる手段を持って継続される政治に他ならないという戦争論です。これは、今も支配的であるけど、これはもう通用しない。政治で話がつかなかったとしても、戦争を選択したら、それだけでもう敗者になるんだ。戦争を選んだら勝者も敗者もいないという形の新しい戦争論を私たちは出さなければならない。平和主義を掲げる日本こそ、先頭に立って、新しい戦争論を作る努力をする必要がある。戦争論の中身は軍事だけではなく、政治も経済も、文化もさらに国際的視野で考察されなければならないものであるが、私たちの国の指導者は軍事だけに収斂しているから、古い戦争論の域を出ない。古い戦争論を否定して、新しい戦争論を作る努力をしていないと言って良い。

もう一つは核抑止力下の平和論である。核抑止力の平和論はロシアにとっては何の意味もない。ロシアが核攻撃もあり得るなどと言うなら、核を保有していない国は我々だって核を持つ権利があると当然言い出す。核抑止力による平和論は曖昧で、核保有国のエゴイズムということが明確になった。プーチンの発言によって核抑止論は見直されるべきだし、だからこそ新しい核抑止力の平和論を作るチャンスだと思う。それは被爆国として、核なき世界の実現、核についての全世界的な人類史的宣言を日本として提起するべきと思う。唯一の被爆国として全世界に核なき世界の実現を提起するチャンスでもあるのに、その役割果たしていない。

戦争の歴史を振り返ると、明治以降、戦争を繰り返してきた日本は、最終的に昭和20年8月15日の敗戦よって、大日本帝国は壊滅し、新生日本が誕生した。新生日本は平和主義、国民主権基本的人権の尊重という3つの柱を持つ日本国憲法が制定され再出発した。基本的人権の中身は自由権、平等権、社会権参政権の四つに分けられる。大日本帝国憲法下においては様々な自由権が制限されていたが、日本国憲法下においては、言論の自由、出版の自由、結社の自由、移動の自由など様々な自由権が認められた。平等権においても性別、年齢、職業、出生地など大日本帝国憲法下では不平等に扱われていたことも平等権が認められた。社会権は、人間らしい豊かな生活が保障される権利で、例えば義務教育の実施など大日本帝国憲法と比べて大きく改善された。また参政権大日本帝国憲法下では税金を納めたものしか選挙権が与えられなかったり、女性には選挙権がなかったりしたが、日本国憲法下では20歳以上の男女に等しく初めて選挙権が与えられた。大日本帝国憲法下では、主権は天皇にあり、国民は天皇の子供という立場に置かれ、まず第一に天皇に(国家に)忠義を尽くすことを求められ、個人として尊重されることはなかった。しかし、日本国憲法下においては、日本国の主権者は国民であり、国民は個人として尊重され、基本的人権が認められるようになった。敗戦によって、日本国民にとっては大転換が起こったことになる。そのことについて保坂氏は次のように述べていた。

「戦後、大日本帝国憲法下で、国民を縛っていた制限が撤廃され、基本的人権が認められ、様々な権利を手に入れた。この市民的権利を自覚するかしないかということはとても重要である。市民的権利を自覚しない人は国家に依存することと同じである。個人は、市民として国家と対等の関係である。国家の政策に納得いかないと思ったら市民は抗議することができる。日本国憲法12条には、この憲法が国民に保障する自由及び権利は国民の不断の努力によってこれを保持しなければならないと書かれている
国家の行うことを批判する権利があることを自覚して、不満があれば抗議行動を起こす。政治が国民の意に沿わないということであれば、選挙で落選運動をすることも可能である。逆に国家に依存し、国家に盲従してついていくならば、それは天皇制国家の臣民と変わりがない。それは自分の権利を放棄していることであり、自分に対する基本的認識が間違っていると言うことである。権利を持った市民という言葉を国民一人ひとりが意識にしっかりと定着し、普遍化していくことが必要です。現在、私たちが手に入れたのは、戦後のアメリカンデモクラシーです。戦後のアメリカンデモクラシーは、強者のアメリカが日本に与えたお情けの民主主義です。私たちが手に入れた民主主義は、革命で勝ち取ったものではなく、与えられた民主主義です。私たちは戦後70年以上民主主義の中にいて、戦後民主主義アメリカン民主主義とか言われてきた。戦後もアメリカンも取り去る努力をしなければいけなかった。与えられた民主主義であっても、それをしっかりと自分のものにするために取り去る努力を懸命にすべきであった。この努力とは、憲法を変えるということではない。アメリカから与えられた借り物の民主主義を、普遍的原則的民主主義に変えていくのは政治や思想の問題ではなく歴史の問題であると、私は思っている。過去の歴史を顧みて、なぜ310万人の日本人が戦争で死ななければならなかったのか、この愚かな戦争で日本が行なった加害の実態そして被った被害の実態それらを踏まえて現在の民主主義を手に入れたという歴史についての議論を日本人はもっとすべきだと思う。この民主主義への取り組みは国家の課題として取り組むべきと思う」

保坂さんの講義を聞いて、日本人は近代史から多くのものを学ぶべきだと改めて思った。与えられた民主主義を自分のものにするためには愚かな戦争の過去をしっかり見つめることが大事だと思った。