ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「反戦川柳人 鶴彬の獄死」を読む

表紙を開けた裏には次のように書かれていた。
サラリーマン川柳のように、現代では 風刺や批判をユーモラスに表現するものとして親しまれている川柳。しかし、その川柳を通じて、昭和初期、軍国主義に走る政府を真正面から批判し反戦を訴え続けた作家がいた。鶴彬、享年二十九。官憲に捕らえられ、獄中でなお抵抗を続けて憤死した“川柳会の小林多喜二”と称される鶴彬とはどのような人物だったのか。戦後約80年、再び戦争の空気が漂い始めた今の日本に、反骨の評論家・佐高信が、鶴の生きた時代とその短い生涯、精神を突きつける!」

さらに、冒頭のあいさつで佐高信氏は次のように記していた。
「『万歳とあげて行った手を大陸において来た』『手と足をもいだ丸太にして返し』などの激越な川柳を発表して官憲に捕えられ、1938年9月14日、29歳で獄中死した鶴彬は1909年に石川県河北郡高松町で生まれた。本名を喜田一二(キタカツジ)という。同じ年に、NHKの朝の連続テレビ小説『エール』のモデルとなった国民的作曲家古関裕而が福島に生まれている。古関は、“勝ってくるぞと、勇ましく”の『露営の歌』や“若い血潮の予科練の、七つ釦は桜に錨”という『若鷲の歌』など多くの戦争協力の歌を作った。戦後は一転して原爆許すまじの願いを込めて『長崎の鐘』を作曲した。古関の自伝によると、古関に召集令状が届いた時、古関は驚いて海軍人事局に飛んでいき事情を話したところ、一ヶ月後に招集解除になったと書かれている。軍歌を作曲したことでそうなったことについて、古関は何の矛盾も感じていない。古関の生き方ではなく、鶴の生き方とその川柳こそ後世に伝えるべきと思って、私はこの本を書く」とあった。

鶴彬はその短い生涯の中で八百数十の作品を残している。1925年16歳で川柳文壇に、第一歩を記して以来、ひたすらに川柳文学とは、文学と政治、社会の相関性、そのなかの人間のあるべき姿を追求しつづけ、獄中病死に至るまで終始変わらず、働く者の文学、川柳の創造と発展に尽くしてきた。
特に、平和を求め、戦争の悲惨さを訴える、反戦平和の作品を次々に発表した。
「万歳とあげて行った手を大陸において来た」
「手と足をもいだ丸太にして返し」
「高梁の実りへ戦車と靴の鋲」
「出征の門標があってがらんどうの小店」
「屍のいないニュース映画で勇ましい」


働き手を軍隊に奪われ、凶作に追い打ちをかけられて、戦争中に特に東北の農村では娘を女郎屋に売らなければならなくなった。娘たちは「修身にない孝行」でそれを強いられた。親孝行の「修身」こそが「淫売」を強制すると川柳で訴えた。
「つけ込んで小作の娘買いに来る」
「修身にない孝行で淫売婦」
貞操を為替に組んでふるさとへ」
塹壕で読む妹を売る手紙」

 

師範学校進学を養父に阻まれた鶴は、機織工場ではたらき、劣悪な女子工員の労働実態と職業環境に次のような川柳を作った。「故郷の農村もひどいが、工場はもっとひどかった」という言葉がある。「工女さんたちは、貯金もできたし、町に活動写真も見に行けたから故郷の農村よりましだった」という言葉もある。言葉だけでは、当時の時代性の中で、彼女たちがどのように見られていたのかどのように位置づけられていたのか客観的にわからない。鶴彬が当時の女工さんを詠んだ句は参考になる。社会に実態のないことを詠んだら、川柳にならないからである。
「もう綿クズを吸えない肺でクビになる」
「吸いにゆく姉を殺した綿くずを」
玉の井に模範女工のなれの果て」
「みな肺で死ぬる女工の募集札」
「都会から帰る女工と見れば病む」

 

「泥棒を選べと推薦状がくる」
泥棒をの句は当時の衆院選挙のことである。今なら、誰でも言えるけれど、世間がみな大政翼賛会に動いていくころに、こんなに激しい時代批判をどれだけの人が言えただろう

 

「労働ボス吼えてファッショ拍手する」
二・二六事件」が起きた1936年の作品である。この年の1月に日本労働総同盟と全国労働組合同盟が一緒になり、労使一体の反共主義全日本労働総同盟全総」が結成された。そして日中戦争が始まった翌年7月に、「全総」は戦争を支持し、ストライキ絶滅宣言をする。権力と闘わず、権力のための戦争に拍手したのである。それからほぼ80年後の現在の「連合」と戦争中の「全総」とどこが違うのかと思う。

 

 川柳を通して、反戦を貫く活動を続けていた鶴彬は特高に目をつけられ逮捕されて、そして獄中死した。鶴彬逮捕は密告によってなされたと書かれている。その密告までのいきさつは以下の通りである。
 川柳の一派である「三味線草」という川柳雑誌が、鶴彬が所属する川柳雑誌「川柳人」を次のように指弾した。
「新興川柳である「川柳人」は餓死や淫売婦を詠うだけでなく愛国の沸る作品を示せ。『重税の外に献金すすめられ』という句主の日本人的意識を疑う。川柳が人間の『真実』を歌う文学であることはわかる。日本人的な詩人たちが軍歌を献納し、川柳家皇軍慰問川柳会を開くことは当然である。君たちは日本人的詩人であることを不服とするのか。国家観念はどうした」
川上三太郎を含む、こうした 愛国鼓吹に「川柳人」は「そんな官製青年団の幹事みたいな安価な国家観念を持って居丈高になっては、おかしくて返事ができぬ」と反発した。
「万歳を必死にさけぶ自己欺瞞
「華やかに名を売り故郷へ骨が着き」
「人間へハメル口輪を持って来い」などの川柳を発表する。これが、また彼らを刺激した。
「現下、国民精神総動員、遵法週間等の叫ばれる時、吾等の川壇を暗くするこれ等の徒に対しては、更に更に監視を要するのである。しかし、依然として反省せざる場合は、我らは別の手段によって善処したいと思う」
鶴彬と「川柳人」を特定した密告によって、特高は鶴彬逮捕と雑誌「川柳人」の発行禁止を命じた。

命をかけて反戦運動に取り組んだ鶴彬。そしてその鶴彬の反戦運動を潰したのは、国家権力と国家権力に加担した国民であったことを私は忘れないでおこうと思う。この国は、戦争に協力した人については80年立った今でもNHKの朝の連続小説で賞賛してくれる。人間の質は問わない、ただ従順であるかどうかが賞賛の基準らしい。フランスでは、戦争に反対して逮捕された人たちは戦後石碑を建てられたり、学校の名前になったりして称えられているそうだ。国によっていろいろだが、日本は進歩しないばかりか、後退しているように思う。