ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「反戦川柳人 鶴彬の獄死」を読む その2

 本書「反戦川柳人 鶴彬の獄死」の中に、短歌界の重鎮である斎藤茂吉と戦前・戦後俳句界に長く君臨した高浜虚子についても触れられていた。
 藤沢周平は山形出身である。その藤沢周平が、同郷の斎藤茂吉の戦争責任を厳しく追求していることが書かれていた。藤沢は「高村光太郎斎藤茂吉」と言う題で山形で講演をしている。その中で藤沢は次のように語っている。「高村光太郎斎藤茂吉はほぼ同じ時期に生まれている。そして二人は同じような経歴や状況を過ごし、二人とも戦争に協力してきた。光太郎は大政翼賛会の中央協力会議の議員になり、文学報国会の詩部会会長を務めた。そして、戦争を賛美し、国民をそれに駆り立てる詩を書いてきた。戦後、光太郎は、冬の吹雪の晩には中に雪が入るような粗末な小屋に住み、そこで7年間自己流謫を行った。原因は戦争協力であった。戦争中に軍に協力したことを非常に後悔して、この小屋で反省の生活に入った。ここで、戦争を賛美し国民をそれに駆り立てる詩を書いたことを振り返り、自分がいかに無知で愚かであったかを告白する「暗愚小伝」を書いた。それに比して、斎藤茂吉は戦争中は、山形に疎開し、疎開中は名家の離れに住み、また地元の歌の弟子から世話を受けて過ごした。戦争中は、実にたくさんの戦争賛美、戦意高揚の歌を詠んだ。東條首相賛歌という歌も作った。1943年には、「敵ガニューブリテン島ニ上陸シタ。敵!クタバレ、コレヲ打殺サズバ止マズ!生意気ノ敵ヨ、打殺サズバ止マズ」と書き、敗戦直後には「今日ノ新聞ニ天皇陛下マッカーサーヲ訪ウタ御写真ガノッテイタ。ウヌ、マッカーサーノ野郎」と書いている。熱狂的な戦争賛美者であり、協力者であった茂吉の夢は、戦争がおわっても、全く覚めることがなかった。

 文人歌人に戦争責任があるとすれば、作られた詩とか歌を読んで未練を断ち切って戦争に行った人があるかもしれない。それを気持ちの支えにして死地におもむいた人がいるかもしれないという、まさにこの一点にあるわけだが、斎藤茂吉の頭にそれがなかったのは寂しい気がすると藤沢は指摘している。さらに藤沢は言う「茂吉は偉大な歌人だったし、今なお偉大である。ただ、いくら偉大な歌人であっても、茂吉もやはり欠点の多い一人の人間としてみたい。戦争協力の一点をみても、人間的欠点の多い人だと言うことがわかる。これもまた、隠すことなく茂吉の全体像の中に含めその上で、茂吉の業績を讃えるべきものだろうと思う」と語っている。私も同感である。

 高浜虚子については、フランス人の俳句研究家マブソン青眼が語っている。高浜虚子は1940年(昭和15年)に日本俳句作家協会が設立され、会長に就任した。そして、「立派な国民精神を俳句によって作り上げるという目標の下に大同団結する」と宣言した。虚子は1936年にドイツに行った時、「春風やナチスの旗もやはらかに」という句を作っている。大同団結とは、戦争への疑問や反対を消すための言葉であり、虚子は「立派な国民精神」とは何かを疑うこともしなかったのだろう。1941年12月8日の真珠湾攻撃の直後には「戦いに勝ちていよいよ冬日和」と詠んでいる。マブソンは虚子が作った聖戦俳句を他にも挙げている。「勝鬨はリオ群島に谺して」「美しき御国の空に敵寄せじ」「日の本の武士われや時宗忌」
 虚子は、戦争中は日本俳句作家協会会長や日本文学報国俳句部長を務め、終戦まで内閣情報局からその報酬をもらい続け、本土空襲の際は、軍の計らいで信州小諸で優雅な疎開生活を送っている。
 虚子が日本俳句作家協会会長の職にあった1940年に、「俳句弾圧事件」が起こった。1933に創刊された「京大俳句」は作風と批判の自由を標榜していた。しかし、戦意高揚の俳句作成や使う季語すら国から推奨される時代に厭戦反戦の俳句を次々に掲載したことで特高によって44名が逮捕され、京大俳句の発行が禁止された。日本俳句作家協会は俳句弾圧事件の際、特高に協力したと言われている。虚子は会長としてファシズム国家に賛成し、協力した過去を認めなければいけない。そうしないと新しい俳句の時代は始まらないとマブソン青眼は指摘している。マブソン青眼氏らの尽力があって現在、長野県上田市にある「戦没画学生慰霊美術館 無言館」に「俳句弾圧不忘の碑」が建てられている。

 川柳界においても、短歌界においても、俳句界においても権力に媚びるものはどこにでもいる。そして権力に媚びるものは、反対勢力を簡単に売る。これも歴史の事実である。権力に逆らうものは謀反である。その謀反について徳富蘆花が大学生に語った言葉が残されている。
1910年(明治43年)、明治天皇の暗殺を計画したという口実で幸徳秋水ら12名の社会主義者が死刑になった事件が起きた。この事件が大逆事件である。この大逆事件は時の権力によるでっちあげであったことは今では明確になっているが、当時はまだ真相は闇のままである。
 1911年、徳富蘆花は第一高等学校弁論部が開いた講演会に招かれ、この大逆事件に触れて話をした。「彼らは乱心賊子の名を受けても、ただの賊ではない。志士である。ただの賊でも死刑はいけぬ。まして、彼らは有為の志士である。自由平等の新天地を夢み、身を捧げて人類のために尽くさんとする志士である。その行為はたとえ狂に近いとも、その志は憐れむべきではないか。かれらは、もとは社会主義者であった。富の分配の不平等に社会の欠陥を見て、生産機関の公有を主張した。社会主義が何が怖い?世界のどこにでもある。諸君、幸徳君らは時の政府に謀反人と見做されて殺された。諸君、謀反を恐れてはならぬ。謀反人を恐れてはならぬ。自ら謀反人となるを恐れてはならぬ。新しいものは常に謀反である。(中略)諸君、我々は生きねばならぬ、生きるために常に謀反しなければならぬ。自己に対して、また周囲に対して」
 これほど痛烈な政府批判もなかった。この講演は文部省を驚愕させた。しかし、校長の新渡戸稲造は平然として学生を擁護し、学校長として自分が譴責処分を受けた。新渡戸稲造校長も、やはり、「新しいものは常に謀反である」と思っていたからだろう。私も化石のような石頭でなく、新しいものを切り開く謀反人でありたいと思う。