ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

平戸街道ウオーキング その1

川棚駅をスタートして青線を通って早岐駅までのコース。距離13.6km、最低高度1m、最高高度255m、総上昇高度403m、消費カロリー1368kcal、天気曇り、気温27度、湿度67%

平戸街道(平戸往還)は、江戸時代に整備された街道の一つで、現在の長崎県平戸市田平町から長崎県東彼杵町までの約14里(57.6km)の道のりである。その平戸街道を6回に分けて踏破する企画を新聞で見つけた仲間から声がかかり、一緒に参加することにした。 

 

左:川棚駅前広場   右:川棚川より旧中心部を望む

集合場所は川棚駅である。定刻に川棚駅前広場に行くと、すでに多くの人が集まっていた。今日の企画は「平戸街道ネットワークの会」の主催である。リーダーの方から今日の行程について説明を受ける。今日の参加者は60名を越していますので、2班に分けて行います。1班は積極派、2班はのんびり派です。それぞれの旗に集まってくださいと言うと、ほぼ半分に分かれた。こういう分け方もあるのだと感心する。川棚駅をスタートしてしばらく進むと川棚川にかかる橋にでる。そこでガイドさんから説明を受ける「この川の向こうに見える地区が江戸時代の川棚の中心部です。先ほどの川棚駅近辺は埋立地で江戸時代はこの辺りが海岸線でした」ガイド付きのウオーキングは勉強になる。

 

川棚川を超えてしばらく進んでいくと中組郷の「走り落て」という地名の場所に来る。ここは平戸街道の中でも一番の急な坂で、ここを下る時は、歩いていても自然に走り出し落ちるような勢いがつくほどの急坂という意味らしい。今日はその「走り落て」を逆に上ることになる。確かに言われる通りの急坂でやっとの思いで上りきった。上る途中に古い石塔が建つ墓があった。ここは松浦御厨氏の党内争いに敗れた御厨氏の一派が落ち延びてきたところでその子孫の墓ということであった。松浦党はよく研究されているようだ。

 

「走り落て」を過ぎると、いよいよ山の中に入っていく。山の中の古道を歩くのは気持ちが良い。また、江戸時代の人はこの道を歩きながらどういうことを考えながら歩いたのだろうかと想像するだけでも楽しい。昔の主要街道と言っても、今は手が入らず草が生い茂り道が判然としないところもある。今回のウオーキングの前に、主催者の方が下見をして薮の草払いなどをしたそうだが、場所によっては手をつけられないくらい荒れているところもあり、そこは迂回するということであった。昔は、近隣の方が街道の整備を割り当てられ、使役として駆り出され常に手入れされていたが、このままではいつかはなくなってしまうのだろう。

 

山道を抜けて舗装道路に出る。道路脇に「白岳狼煙場登り口」と刻まれた石柱が建っている。白岳の標高は300mである。江戸時代、白岳には狼煙台が設けられていた。長崎で異変が起きた時は平戸藩にも緊急連絡が行くように使われたようだ。今日の平戸街道の最高高度255mに近づくと樹木の切れ目から九州のマッターホルンと言われる虚空像山(608m)が見えてきた。

 

狼煙台上り口を過ぎて進むと「旧平戸街道一杯水の跡」という石柱を発見。その横から水が流れている。ここは平戸街道華やかし頃、街道を通る旅人たちが荷具をおき休憩した場所である。「ここで、お殿様がひしゃく一杯飲まれたという故事から一杯水と言う名が起こった。ここの清水は年中絶えることがない」と案内にある。

 

一杯水立て場を過ぎると、「宮村境一里塚跡」という石柱を発見。一里塚は後方の石積みである。昔、この地の道の両側に一対の石積みがあった。それが一里塚である。写真に見える一対の石積みは、2000年にそれを復元したものである。

 

山を下って宇都宮神社到着。宇都宮神社は旧宮村の総鎮守である。宇都宮家は南北朝時代尊良親王が九州下校の折、親王を守護して上陸した宇都宮弥三郎道綱を始祖とし、出身は関東の宇都宮と伝えられる。武神として尊崇され、特に戦時中は出生兵士の武運長久を祈願することで有名であったと案内に書かれている。

 

山を下りてきたらお昼になった。お昼の場所は主催者の方のご配慮で梅ヶ枝酒造さんのお庭でいただくことになった。きれいなお庭でいただく昼食はいっそう美味しいものになった。

 

昼食後は平戸藩大村藩の境界となる舳ノ峰番所跡をめざす。番所跡は何もなく、番所の石などが残されている近くの場所へ行く。そこにはお手つき石と藩境傍示石が移されて残されていた。お手つき石は番所で平民がお役人に対面するときに、このお手つき石の前に座って、お手つき石に手をついて礼をして、名前を名乗り訴えをした石である。

 

次に「矢通し石」の石碑を見る。1586年(天正14年)広田城攻防戦の時広田城から放たれた矢がここまで飛んできたという伝承の石である。広田城からここまで直線で400mあり、当時の矢の性能(100m)から考えられないが………。この地を測量した伊能忠敬日記には「右道端に矢石高さ5尺(1.5m)あり」と書かれているが、現在の高さは0.9mで風雪による摩耗のためか低くなっている。

 

早岐駅の近くを流れる小森川にかかる小森橋を通る。この橋は江戸時代に架けられた平戸街道の重要な橋である。伊能忠敬測量日記には、「12月9日小森橋前に印を残す。小森橋を渡る27間(49m)」とある。

 

13.6kmのウオーキングを終えた。ガイドさんの熱心な説明で理解が深まった。また疑問点はなんでも即座に回答してくれる博識が頼もしい。平戸街道ネットワークの会のメンバーには平戸街道の歴史、平戸藩の歴史、松浦党の歴史など研究熱心の方がたくさんおられるようだ。機会があればまた参加したと思う。