ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

興福寺の紫陽花季を楽しむ

 

梅雨晴れの一日、連れ合いから紫陽花を見に行こうと誘われた。今、長崎では中島川公園で紫陽花まつりが行われている。紫陽花を見るのなら、昨年行った興福寺の紫陽花を見に行こうということで興福寺と中島川公園に行くことにした。興福寺では昨年と同じように、紫陽花季が行われていた。

 

興福寺にはいろんな紫陽花が植えられている。それぞれ名前があるのだろうが私はわからない。色も形も様々である。紫陽花を見るたびに、昔の小学校の校長先生のお話を思い出す。紫陽花の季節に校長先生が紫陽花の花を持って話をはじめた。「アジサイの花は大きくて綺麗でしょう。この大きい綺麗な紫陽花の花は一つの花でできていません。アジサイの大きい花は小さい花びらがたくさん集まってできています。みんなが力を出し合って、一つの大きな綺麗な花を作っているのです。私たちは誰の力も借りずに、一人で頑張ることが必要な時もあります。また、アジサイのようにみんなで力を合わせて頑張らなければならない時もあります。その時はこのアジサイの花のようにみんなで頑張ってやりましょう」みたいな話だったと思う。

 

紫陽花を見ながら進んでいると薄らと甘い香りがする。何だろうと思っていたら、その白い紫陽花は中国琉球という名前の香りがする中国の紫陽花ですよと周りの方に教えていただいた。

境内の一角には第四代住職隠元禅師の像が建てられている。黄檗宗の開祖である隠元禅師は中国福州から1654年(承応3年)長崎へ渡海、興福寺住職として1年間滞在した。その後、京都の宇治に万福寺を開山し、黄檗宗を広め日本の建築、彫刻、絵画、書、茶、料理などに多大な影響を与えた方である。

 

広い境内には至る所に紫陽花が咲いている。青い空を背景に、興福寺の大雄宝殿の前庭で翻る興福寺の幡(ばん)と五色の吹き流しを見るのが私は大好きである。この幡と五色の吹き流しは興福寺の旗印である。17世紀、唐船が長崎に頻繁に来航した。唐船は長崎に着岸したら、滞在中は航海の守り神である媽祖様を興福寺に安置するために、長崎の空に翻る興福寺の五色の吹き流しを目印に興福寺に向かったとある。それが媽祖行列である。当時、町の人々は興福寺に幡と五色の吹き流しが掲げられると媽祖行列を心待ちにしたとある。前庭の椅子に座り、幡と五色の吹き流しを仰ぎ見ると当時の人々の声が聞こえるような感じがする。

 

興福寺の一角にある庫裡にお茶席の案内がある。ちょうど喉も渇いたのでお抹茶を頂くことにした。案内を受けて縁側に設けられた席につく。傍のテーブルの上に小さな鉢植えの青い紫陽花が置かれていた。

 

縁側から裏庭に通じる作りになっている。裏庭には池があり鯉が泳ぎ、亀が日向ぼっこをして、蛙が鳴いている。また池の中には蓮が花を咲かせ、さらに池の周りにはツツジの赤い花や半夏生の半分白くなった葉を見ることができる。蛙の鳴き声を聞きながらいただくお茶は格別である。

 

左:鐘鼓楼     右:媽祖堂

紫陽花を巡りながら、境内の建物を見学する。鐘鼓楼は二階建てで、上階は梵鐘を吊り太鼓が置かれ階下は禅堂として使用されたと案内にある。1663年(寛文3年)の市中大火のあと、1691年(元禄4年)に再建と書かれてある。

媽祖堂は唐船が長崎に停泊中、船の守り神である媽祖像を安置した場所である。1670年(寛文十年)の扁額「海天司福主」がある興福寺最古の建物である



興福寺の紫陽花季を見学した後は、中島川公園の紫陽花まつりへ行く。中島川の川沿いに沿って紫陽花の鉢植えがたくさん並べて置かれている。どの鉢植えも今が盛りで一斉に咲き揃った姿は見事としか言いようがない。この見事な紫陽花を楽しむためにたくさんの人が見学に訪れていた。

中島川にはたくさんの石橋が架かっている。もちろん1番有名な石橋は日本で1番古い石橋であると言われるこの眼鏡橋である。眼鏡橋興福寺の二代目住職である黙子如定によって造られた石橋である。長崎は古くから中国との関係が深い。この眼鏡橋ばかりでなく、長崎には中国から学んだ風物や習慣がたくさん残されている。久しぶりにゆっくり中島川公園を散歩した。中島川近辺を歩くと子供時代を思い出させるような何か懐かしいものを感じる。ここは私にとって心落ち着く場所である。