ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

俳句は難しい、だけど面白い

 句会に参加して私も選句している。しかし、私が選んだ俳句は低評価を受けることが多い。皆さんが投票する俳句を選ばないで、皆さんがダメと思っている句を私は選んでいるようだ。選句の対象になっている俳句を一つ一つ読みながら選句していくが、どれも良い俳句に見えてしまう。俳句の選択のポイントがよくわかっていないから、どれでもよく見えて、選ぶに迷い挙げ句の果ては選んだ句は欠点のある句も多い。俳句の句作も選句もポイントは同じだから、俳句を作れない人は選句もできない。私は上手に俳句を詠めないから、選句も上手にできるはずがない。しかし、私が参加している俳句会は、初心者に寛容でこれも勉強という意味で参加させていただいている。
 俳句会において、私の選句と投稿句について指摘されたことや添削されたことを記す。講師の指摘は的確で言われたらなるほどと思うことばかりである。同じ過ちをしないようにしっかり覚えていきたいと思う。

 さざ波に足跡消され夏終わる                            この句は平凡過ぎます。砂、足跡、波、消える・・・・誰もが考える組み合わせです。さらに「夏終わる」と予想された言葉が上塗りされています。俳句作りのポイントは予定調和を避けることですと指摘された。良い句と思ったけど、誰でも考える言葉で表現するのは平凡という低評価になるようだ。

白萩や母偲ばるる里の道
俳句では思うとか偲ばれるとかの言葉はできるだけ使うのは避けた方が良い。その言葉には思いが存在するが、直線的でそれ以上広がりが期待できない。できたらそのときの状況を動詞で表現し、その行為を通して思いを広げたい。添削例、白萩や母と歩きし里の道

こぼれ萩童女の母に会ひに行く
萩の季節に認知症のお母さんをホームに訪ねた句である。認知症の母を童女の母と表現するのは定番です。自分のメモとしての俳句はこれでいいですが、作品として発表する時は定番表現やありきたりの表現では評価されません。定番表現にならないようにしましょう。

瞳きらり何をしようか孫の夏                             孫俳句には名句がないと言われています。それは、多くの孫俳句が、祖父・祖母の手放しの愛情、ただただ、かわいい、かわいいという甘ったるい俳句が横行しているためと推測できます。結論ですが、孫俳句は詠んでいいです。ただし、甘ったるい俳句にならないように。

急ぐ足萩満開の窯開き
萩満開の1日。窯開きで人出が多い。いい作品を買おうと、みんな急足になって窯開きの会場にむかっているようすを読んだ句です。急ぐ足はわかるけど、「気の急くや萩満開の窯開き」と添削します。

堀超えてこぼるる萩や止まる足
私はこの句を特選句にいただいた。私は、この句を読んで、「止まる足」から秋を惜しむ様子を感じて特選とした。講師の評価は次のとおりであった。「この句には俳句の欠点が2点あります。一つは中7に「や」をつけていることです。「や」は中七、下五につけないことが鉄則です。もう一つは、この句は「超えて」「こぼるる」「止まる」の三っつの動詞を使っています。動詞3連発は禁止と思ってください。一つの句に動詞は一個もしくは二個までです」動詞を三つも使うと焦点が定まらず句が安定しないようだ。

 以下の三句は私の投稿句である。今回の兼題は「萩の花」であったが、兼題の「萩」ではいい句が作れず、夏の季語「昼寝」と秋の季語「猪」で作った句を投稿した。添削していただいた結果を記す。
砂浜のガゼボの昼寝風さやか
悪くはないですが、昼寝は夏の季語、さやかは秋の季語です。「砂浜のガゼボの昼寝風そよと」に変えましょう。

昼寝して子等の歓声子守唄
歓声を子守唄にしながら昼寝するのは喧しくて寝れないのでではないかと心配になります。ましてや、歓声という騒がしい音が子守唄というのは違和感を持ちます。子守唄はもっと優しい音を想像します。子守唄を使わないで「昼寝する子らの歓声聞きながら」の方がまだいいでしょう。

早朝の人見ぬ道を猪(しし)走る
早朝散歩していた時に、猪を見て作った句です。人見ぬ道は人がいない道の意味で使われていますが、それを見たのは誰?人ではないの?という疑問が湧きます。それを考えて、次のように添削します。「早朝の人の通らぬ猪の道」

英語もできない。中国語もできない。韓国語もできない。確かに、外国語はできないけど、母国語である日本語は70年以上使っているからそれなりに使えると思っていたが、俳句を始めて日本語もよくわかっていなかったようだ。つまり日本語も自由にできない。俳句を始めて、日本語を知らないということがわかり、同時に日本語を知る喜びを感じる。俳句を通じて日本語の学び直しである。