ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

10月の句会へ参加

 10月の句会に参加した。俳句初心者の私にとっては、毎回、参加するたびに新発見の連続である。今回も初心者らしいミスをしながらの学びの場となった  

今回の俳句会の兼題は「秋日和」であった。私は以下の3句を投稿した。
①  秋日和注ぐ日差しの心地よさ
②  秋日和アコウの大樹悠悠と
③  秋日和石塀残る武家屋敷

① 「秋日和注ぐ日差しの心地よさ」については、先生から次のように指摘を受けた。
秋日和」という季語は、秋のよく晴れた一日をいいます。風もなく穏やかなので外で過ごすのも気持ち良い。空気が澄んでいるため視界も広がり、風景などもはっきり見えます。夏や初秋の「秋日強し」「秋日燦」と比べて、注ぐ日差しも心地よいという意味です。ということは掲句は季語の説明であると言えるでしょう。説明句は俳句を始めた初期にはよくある作り方ですが、ここから、季語を生かす句になっていくことを期待します。

②  「秋日和アコウの大樹悠悠と」については、特別問題点の指摘はなかった。③  「秋日和石塀残る武家屋敷」については、句に読んだ光景は詩的なものと評価された。「武家屋敷に残る石塀秋日和」というように語順を変えた方がいいかもしれないというアドバイスであった。中七、下五は語数を厳密にする必要があるが、上五は上六でも七でも八でも特に問題ないということであった。

今回の俳句会の解説で、初めて二物衝撃について説明を受けた。
「俳句の作り方の手法で、一句の中に二つの事物(主に季語と、まったく異なったモノやコト)を取り合わせることで新しい情緒を生み出すことができます。その効果を二物衝撃といいます。二物衝撃の句は比較的詠みやすいので、季語をいろいろな事物と取り合わせて妙味を引き出すことが以前から試みられてきました」と説明があった。

投稿句にも多くの二物衝撃の作品があった。「普賢岳煙りて八重の秋桜」この句は普賢岳秋桜の二物衝撃である。「秋桜に向ひ不動のポニーをり」この句は秋桜とポニーの二物衝撃である。「オムレツの玉子の破れ秋日和」この句も二物衝撃である。上五中七と下五には何らの繋がりはない。

私の作品を見直すと、②  「秋日和アコウの大樹悠悠と」は秋日和とアコウの大樹は二物衝撃である。また、③  「秋日和石塀残る武家屋敷」も秋日和武家屋敷は二物衝撃である。その手法は知識として知らなかったが無意識のうちに二物衝撃的な作り方をしていたようだ。ただ、私の場合は二物衝撃というほどの衝撃をもたらしていない。衝撃をもたらすほどの二物を見出していきたいと思う。俳句の9割近くが二物衝撃を使っているという統計もあるようだ。これからは意識的に妙味を引き出すために二物衝撃に取り組みたいと思った。

「二物衝撃」と異なった別の手法が「一物仕立」というものである。一物仕立というのは「季語をとことん観察して、状態や動作の新しい表現を試みる」ということである。私の失敗作①  「秋日和注ぐ日差しの心地よさ」は季語の秋日和だけを観察対象としているから一物仕立である。この俳句が失敗作なのは、単なる説明文の句で感動を何ももたらさないからである。一つのものをとことん観察して、今まで気づかないような新しい発見を詠めれば「一物仕立」の俳句作りに成功したことになるようだ。「二物衝撃」と「一物仕立」が俳句作りの基本になるようだ。これからは、これらを意識して俳句を作っていこうと思う。

さらに、投稿されていた「刈り跡に鳥交差して天高し」という句について、先生は句材の配置が見事ですと高く評価していた。先生の説明によると、地上に刈り田、空中に鳥の交差、そして、さらに天という構成が句に立体感をもたらし奥行きの深い句に仕上がっているという話であった。句を作る時は奥行きとか立体感とかを意識して作ることも必要なようだ。

「病室に持て余す暇鳥渡る」という投句を読みながら先生が次のように話をした。「この句は入院しているとき、何もすることなく暇を持て余しながら、ふと窓から空を見ると渡り鳥が見えたという句です。私も、以前入院していたことがあります。私は入院中暇を持て余すことはまったくありませんでした。私は、入院中一日に100首作ることを課題にしていました。必死に作り続けました。時間を持て余す暇など一切ありませんでした。もし、皆さんが入院する時があって、俳句が詠める状態であればぜひ俳句をたくさん俳句を詠むことを課題にしてください。絶対退屈しませんから」

先生の俳句の姿勢は即吟即興、多作多捨である。沢山作っていく中にいい句がうまれるという。先生の姿勢に学んでいきたい。