ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

ノーベル平和賞授賞式を見て

 ノーベル平和賞の授賞式がノルウェーの首都オスロで開かれ、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)に記念メダルと賞状が贈られた。そして、受賞演説を代表委員の田中煕巳さん(92歳)が行った。私はその授賞式の様子をネットで拝見した。

 ノーベル平和賞授賞決定通知があった10月12日、東京での記者会見において、田中熙巳さんは喜びに溢れる記者会見を期待した人の予想に反して、受賞を素直に喜べないと語った。「私たちの核兵器廃絶の目標が達成されたわけでもなく、むしろその危険は増大している。また今も、戦争がウクライナやガザなどで行われ多くの死傷者がでている中、とても喜ぶ気持ちにはなれない」という反応であった。その田中さんは受賞演説で何を話すのだろうかと思いながら、受賞演説を聞く日を待ち望んでいた。その演説は、世界の人々に呼びかけた素晴らしい演説であった。

 田中さんは20分の受賞演説の中で次のようなことを訴えた。
日本被団協は1956年8月に結成された。その目的は「被害者救済」と「核兵器廃絶」の二つである。この運動は「核のタブー」の形成に大きな役割を果たしてきたが、しかし、今日、依然として1万2千発の核弾頭が地球上に存在し、4千発が即座に発射可能に配備されている。さらに核超大国のロシアによる核の威嚇やパレスチナにおけるイスラエル核兵器使用への動きなど「核のタブー」が壊されようとしていることに怒りさえ覚える。

 私(田中さん)は13歳の時長崎で、被爆し、その一発の原爆によって一瞬にして叔父、叔母など身内5人を失った。広島では14万人の人が、長崎では7万人の人が一瞬にして黒焦げの無惨な姿に変えられるなどして殺戮された。人間の死とはとても思えない有様であった。同時に原爆で怪我を負い放射線を被曝して生き残った人は40万人に達した。生き残った被爆者は戦後7年間占領軍に沈黙を強いられ、さらに日本政府からも見放され被爆後を病苦と生活苦、偏見と差別に耐え続けた。

 1954年3月、ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験により日本の漁船が被曝したことを契機に原水爆反対運動が起こり、1955年8月に第1回原水爆禁止世界大会が広島で行われた。翌年1956年8月に第2回大会が長崎で開かれたとき、この運動に励まされ、この大会に参加した原爆被害者によって日本原水爆被害者団体協議会(被団協)が結成された。結成宣言で「自らを救うとともに、私たちの体験を通して人類の危機を救おう」との決意を表明し、「核兵器の廃絶と原爆被害に対する国補償」を求めて運動に立ち上がり、国内のみならず、世界に向けて世界の被爆者と連携して活動を続けてきた。その結果として、被団協も関わってきた「核兵器禁止条約」が2017年7月に制定されたことは大きな喜びであった。

 原爆被害者の現在の平均年齢は85歳で、10年後には数人になると予想されている。私たち原爆被害者は、人類は二度と同じ苦しみを受けるべきではないという思いと核兵器は地球を滅亡させるという思いから声を上げ続けてきた。しかし、現在、今なお多くの核弾頭が存在している。これは、世界中の皆さんがいつ被害者になってもおかしくないし、加害者になるかもしれない。どうか、核兵器をなくしていくためにどうしたらいいか世界中の皆さんと共に考え求めていきたい。次世代の人にぜひこの運動を繋げていただきたい。

 地球上には核兵器を持つ国、核兵器の傘の下にある国、核兵器に関係ない国の三つに分けられる。特に核兵器を持つ国と核の傘の下にある国の人々は自国政府の核抑止論の政策を変えさせ、核廃絶へ進めるよう、それぞれが取り組んでもらいたい。

 世界中の皆さん、核兵器廃絶の国際条約の策定を目指し、核兵器の非人道性を感性で受け止めることのできる原爆体験証言の場を各国で開いてください。核兵器は人類と共存できないという信念が根付き自国政府の核政策を変えさせる力になるよう願っています。人類が核兵器で自滅することのないように、核兵器も戦争もない世界の人間社会を求めて共に頑張りましょう」と結んだ。

 受賞演説を終えて、会場は万雷の拍手に包まれた。その後、日本被団協の栄誉を讃えて、日本の音楽が会場で演奏された。曲目は「荒城の月」である。オスロー市庁舎のホールに男性テノール歌手の荒城の月が朗々と響き渡る。日本語で荒城の月が歌われる。オスロの冬、ノーベル平和賞授賞式で聴く荒城の月は最高の栄誉である。日本人の一人として、被団協のこれまでの弛まぬ取り組みに心から尊敬と感謝を表したい。

今日の一句   高らかに荒城の月冬オスロ