先日、ニコニコ動画のエアレボリューションを拝見した。今回の課題は、内田樹氏をゲストに迎え、内田樹氏の著書「街場の天皇論」(2017年10月出版)をテキストにして「天皇論」をテーマにして行われた。私自身、普段、天皇制について考えることはなかったが、番組を拝見して天皇制について理解を深めるいい機会になった。
番組では、天皇論の話を進める資料として、平成天皇が生前退位を表明された時の「おことば」がまず紹介された。その一部を記す
象徴としてのお務めについての天皇陛下のお言葉 平成28年(2016年)8月8日
「即位依頼、私は国事行為を行うとともに、日本国憲法下で象徴と位置つけられた天皇の望ましいあり方を、日々模索しつつ過ごしてきました。伝統の継承者として、これを守り続ける責任に深く思いを致し、さらに日々新たになる日本と世界中の中にあって、日本の皇室が、いかに伝統を現代に生かし、生き生きとして社会に内在し、人々の期待に応えていくかを考えつつ、今日に至っています。
そのような中、何年か前のことになりますが、2度の外科手術を受け、加えて高齢による体力の低下を覚えるようになった頃から、これから先、従来のように重い務めを果たすことが困難になった場合、どのように身を処していくことが、国にとり、国民にとり、また私の後を歩む皇族にとり良いことであるかにつき、考えるようになりました。既に80を超え、幸いに健康であるとは申せ、次第に進む身体の衰えを考慮する時、これまでのように、全身全霊を持って象徴の務めを果たしていくことが、難しくなるのではないかと案じています。
私が天皇の位についてから、ほぼ28年、この間私は、わが国における多くの喜びの時、また悲しみの時を、人々と共に過ごしてきました。私はこれまで天皇の務めとして、何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ることを大切に考えてきましたが、同時に事にあたっては、時として人々の傍に立ち、その声に耳を傾け、思いに寄り添うことも大切なことと考えてきました。天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。皇太子の時代も含め、これまで私が皇后とともに行って来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な国民を思い、国民のために祈ると言う務めを、人々への深い信頼と敬愛を持ってなし得たことは、幸せなことでした」
内田氏はこの「おことば」を受けて次のように語っていた。
世界中で、日本だけが立憲民主制と言う近代国民国家・近代市民社会の形態をとりながら、古来の天皇制を存続させている。霊的権力と世俗権力の二重構造が統治システムとして機能し、天皇が象徴的行為を通じて国民の精神的な統合を果たしている。こんな国は世界では日本しかありません。どこかよそに成功事例があればそれを参照できるけれど、どこにもありません。
日本国憲法第一条は、天皇を「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であると定義しています。しかし、この「象徴」という言葉が何を意味するのか、我々日本国民は、今日まで、それほど深く考えてきませんでした。天皇は存在するだけで、象徴の機能は果たせる。それ以上何か特別なことを天皇に期待すべきではないと思っていた。けれど、陛下は「おことば」を通じて、「儀式」の新たな解釈を提示することで、そのような因習的な天皇制理解を刷新された。日本国憲法下での天皇制は「いかに伝統を現代に活かし、いきいきとして社会に内在し、人々の期待に応えていくか」という陛下の久しい宿題への、これが回答だったと思っています。
「象徴的行為」と言う表現を通じて、陛下は「象徴天皇には果たすべき具体的な行為があり、それは死者と苦しむものの傍に寄り添う鎮魂と慰藉の旅のことである」という「儀式」の新たな解釈を採られた。そして、それが飛行機に乗り、電車に乗って移動する具体的な旅である以上、当然それなりの身体的な負荷がかかる。だからこそ、高齢となった陛下には「全身全霊を持って象徴の務めを果たしていくこと」が困難になったという実感があった。「おことば」の「全身全霊をもって」というのは、「命を削っても」という意味です。それは鎮魂と慰藉の旅のこと以外ではあり得ません。
天皇の第一義的な役割が祖霊の祭祀と国民の安寧と幸福を祈願することであること、これは古代から変わりません。陛下はその伝統に則った上で、さらに一歩を進め、象徴天皇の本務は死者たちの鎮魂と今ここで苦しむものの慰藉であるという「新解釈」を付け加えられた。これを明言したの天皇制史上はじめてのことです。現代における天皇制の本義をこれほどはっきりと示した言葉はないと思います。何より天皇陛下ご自身が天皇制の果たすべき本質的な役割について、自ら明確な定義を下したという画期的なことです」と語っていた。
と同時に、当時の安倍政権について次のように述べていた。
しかし、安倍政権の対応は冷ややかでした。官邸には鎮魂や慰藉ということが統治者の本務だという意識がないからでしょう。天皇は権力者にとっての「玉」に過ぎない。統治のために利用できる「神輿」でいいとそう思っています。私は、今の安倍政権の周りの人々からは、天皇に対する素朴な崇敬の念を全く感じることができません。統治者である彼らは、ただ政治的「ツール」として、天皇制をどう利用するかしか考えていない。天皇を自分たちの好きに操るためには、天皇を御簾の奥に幽閉しておく必要がある。定型的な国事行為だけやってくれればいい、個人的な「おことば」など語って欲しくないというのが政権の本音でしょう。
伊藤博文から現在の安倍政権に至るまで、天皇を祭り上げ、神聖化し、天皇へのアクセスを(自分自身を含む)少数のものに限定しようとしてきた人々は、天皇が何をすべきかを決めるのは天皇ではなく、「われわれ」政治家であると考えていました。彼らは天皇の権威を絶対化し、天皇を「御簾の内」に隠し、その代弁者として、政府にも憲法にも掣肘されない、戦前の統帥権に似た仕組みを作ろうとしているのです。そのための改憲運動です。安倍政権だけでなく、日本の政治家はいつも都合よく天皇制を利用しようとしてきました。
現在の日本の公人で、「天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この日本国憲法を尊重し擁護する義務を負う」という第99条に定めた憲法尊重擁護義務を天皇ほど遵守されている人はいない。国会議員たちは公然と憲法を批判し、地方自治体では「護憲」集会に対して「政治的に偏向している」という理由で、会場の貸し出しや後援を拒むところが出ている。そういう流れの中進められている改憲路線に対する最後のハードルの1つが、護憲の思いを語ることで、迂回的な表現ながら、「改憲には反対」というメッセージを発し続けてきた天皇です」と内田氏は述べていた。
内田樹氏は、昔は「立憲民主制と天皇制は両立できない。従って天皇制は廃止した方がいい」と思った時期もあったそうだ。しかし、年をとり、他の国の統治システムを知ってくると、話はそれほど簡単ではないと思うようになり、、今は天皇主義者であると語っている。そして、今回の「おことば」に接して、尚その思いを強くしたようだ。私は象徴天皇について深く考えることなく今日まで来た。天皇制については迷うこともあったが、内田氏の考えを聞いて内田氏に同感したいと思う。何よりも日本国憲法を護る護憲的立場から天皇主義者へなりたいと思う。