ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「承認をひらく」を読む その1

 この著書のカバーの裏には次のことが書かれていた。「民主主義社会とは、個人の尊厳から出発し、人間らしい生活ができないような貧困、排除があってはならない社会である。その実現のために今こそ社会的総合承認と社会参加が求められる。あるべき承認の本質とは何か。それについて生活の営みの中から解きほぐす」とあった。

著書の説明に興味を惹かれ読み進めると、承認について次のように記されていた。
「承認という言葉は、日頃あまり馴染みのない言葉だと思われているようです。『承認って何か特別な意味があるの?』と聞かれることもあります。けれども、承認という言葉は、なじみがないどころか、官民にかかわらず私たちの生活と社会を大きく左右している言葉なのです。
 既に、マイノリティーといえないほど多くなった非正規雇用は、シングルマザーを始め、たとえ大学を出ても『望まぬ非正規』という職にしかつけなかった人たちを、不安定雇用と生活困難のどん底につき落としました。暮らしにあえぐ人たちは、一人前の人間として承認してほしいという、本源的な欲求不満を抱えながらも、生きていく意味を模索しています。非正規というだけで社会から1段下に見られる差別感に耐えられない人もいます。果たされなかった承認欲求と生活苦から、自死や犯罪に結びつく例さえあります。
 少子社会の大きな原因もそこにあるのではないでしょうか。明日の生活計画が立たなければ、子供を産むことに誰もが躊躇せざるを得ないでしょう。
 それらのマイノリティーをめぐる承認は、自分には関係ないと思う人もいるかもしれません。けれども、そういう人々は、特殊ではない日常生活の中にこそ、承認をめぐる深刻な問題が横たわっていることに気がついていないだけではないでしょうか。
 社会的人間としてしか生きられない宿命を持つ人間が、他人の、あるいは社会の承認を求める情念を持つのは当然であり、誰もそれを否定することはできません。人間は自分で自分を見ることができないので、他者という鏡に移して自分を見ます。その結果、自分の姿が他者から肯定的に評価されれば、自信が出てやる気も湧くでしょう。『鏡よ鏡!誰が1番美しい?』と聞くと、『あなたが1番美しい』と答えてくれる鏡に喜ぶ王妃のようなものです。他者から承認されることは、自分が客観的に認められていることの証明でもあり、社会に必要な人間としての普遍性に一方近づくことにもなります。何よりも自分が生きていることの意味を自覚させてくれます。
 個人の人生だけでなく、もっと視野を広げて承認という鏡を通して社会を見ると、その歪みがはっきりと見えてきます。
 自己責任が当たり前される社会になったとき、それに正比例するかのように、『承認欲求の病』と言われる風潮が強くなったのは偶然ではないでしょう。
 しかし、事はそれほど簡単ではありません。鏡の方が歪んでいることも多々あるからです。権力を持つものが承認すべきでないものを恣意的に承認したことで、ついには森友学園事件に見るように、真面目な1人の公務員が『上のものが承認しているから』と公文書の改竄・廃棄を強制され、その挙句、死に追いやられるという痛ましい事件まで起こりました。
 一国の首相という最高権力者が引き起こした、いわゆる『モリ・カケ・サクラ』事件、さらには安倍晋三首相(当時)お気に入りの東京高検検事長検事総長に据えようとして、定年退職1週間前に、従来、決められていた定年年齢を延長しようと閣議決定したことなど、権力者が承認さえすれば、どんなことでもできる社会になりつつあることを私は憂えています。
 その反対に、当然承認すべきものを承認しなかった例もあります。真理の追求を業とする学術の世界を政治に従属させようとした例です。
 2020年9月、当時の菅義偉首相は、日本学術会議が推薦した105人の会員候補者リストから政府に批判的な6人の候補者を任命しませんでした。現行の任命制度となってから、学術会議が推薦した候補者を政府が任命しなかったのは初めてです。その理由を問いただしても根拠のある説明はなく、その理由や経緯を記録した文書の開示を請求しても、不開示とされました。首相が気に入らなかったから不承認というのでは、王様の独裁政治ではないか、政治が学問の内容に介入して、可否を決定すべきではない、などといった大きな批判が学界・弁護士会、メディア、市民社会の間に広がりましたが、政府は、それらを無視し続け、次の岸田文雄首相になってからも『もう終わったこと』としています。
政治権力が行う恣意的な承認/不承認に対して、責任を負うべき最高権力者が責任を負わず、責任を負うことができないバラバラの個人に自己責任を押し付けるという逆転現象が横行している。そして、その影響は国民生活全体に及んでいる。今、私たちは承認問題について、様々な問題を投げかけられている。
  
 貧困と承認拒否(社会的排除)の問題は、資本主義の宿痾であるとも書かれていた。いま、各地で発生している周りを道連れにする拡大自殺、無差別テロみたいな殺人事件の根底には、多くの場合、貧困と承認問題が横たわっている。難しい問題であるが、私たちの家族が、隣人が人質に取られているような状況を思うと、この問題は決して放置できない問題である。まずは、政治権力が行う恣意的な承認/不承認についてしっかりと監視して、不正を正していくことから始めなければならないと思った。資本主義の宿痾であるが、みんなで力を合わせて解決していかなければと思う。