ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「刻印」を読む

 「刻印」には、「満蒙開拓団、黒川村の女性たち」という副題がついていた。そして、この本の紹介文には、次のことが書かれていた。「満州に渡った岐阜県黒川村の開拓団は、終戦直後、団を守るためにと女性たちをソ連軍に「性接待」として差し出すことを決めた。この衝撃の事実は、小さな共同体の中で「絶対に公表しちゃいかん」と長く封印されてきた。著者は、被害者の取材を進める中で、満州から帰国した彼女たちが、長く声を上げ続けていたことを知る。なぜ当人たちが被害を訴えながらも、「あったこと」は「なかったこと」にされてきたのか。事実が、史実として刻印され、女性たちが尊厳を回復するまでを追う」とあった

 2018年8月20日朝日新聞の社会面に、「性接待を語る満蒙開拓の女性たち」という見出しの記事が掲載された。記事は、佐藤ハルエさんという女性が「私は、戦時中に、黒川開拓団の一員として満州に渡り、『性接待』の犠牲になった」と性暴力について語ったという。佐藤ハルエさんは現在93歳。その女性が実名、顔出しで性暴力について語ったという記事であった。

 性暴力を告発する事は、並大抵の心持ちではできない。守られるべき被害者であるにもかかわらず、貶められ、社会の目を気にして沈黙する。何よりも自身が口にすることでフラッシュバックし自分が傷つく。トラウマに苛まれる。ましてや顔を出して、実名でともなれば、個人が特定され、いわれのない誹謗中傷、さらには家族までが攻撃を受け、全てを背負い込むことになり、ハードルはいっそう高くなる。高齢になったから話せるようになるというものではない。むしろ、今更と思い、最後まで黙っていようと考えてもおかしくない。なのに、佐藤ハルエさんは証言を行なった。この本は、朝日新聞の記事を読んだ著者のその疑問から生まれたものである。

性接待の犠牲になった女性たちの手記の一部を記す。
「最初の晩、馬に乗せられた時、死ぬ覚悟であった。ロシア語は全くわからず、人一倍潔癖だから、恐怖と屈辱感で、胃がキリキリ痛んだ。部屋に軍服を着た将校らしい男が入ってきて、何も言わずに朋子(仮名)を押し倒した。目的を遂げると、何かロシア語を早口で言って出て行き、すぐに次の兵隊が来て同じことをした。抵抗すると殴りつけ、行為はさらに乱暴になる。3人の兵隊が続いた後、最後の男は泊まり、夜が明けるまで、朋子の体を弄んだ。大事にしていた絣のもんぺは破られ、体中が痛んだ。夜が明け、ぐったりしている仲間の娘たちを見たときは、一気に涙が溢れた」
「父母は穴倉の隅で黙って泣いていた。それを見て、朋子は泣け叫ぶのをこられた」
「身体の痛み、屈辱感は輪姦のあと倍加したが、『身を汚されても私の心は潔い』と思うことで耐えた」

帰国後、男性たちから浴びせられた誹謗中傷についても、まっすぐに怒りをぶつけている。
「敗戦で帰ってきた男たちは、『戦争に負けたら、女はやられるのが当たり前だ』『俺たちも中支や南支の戦場でいっぱいやったよ』。彼らは悪意やからかい口調でなく、当たり前の顔で言うのである。自慢まじりに強姦体験を話す同胞の男に智子は嫌悪を感じ、腹を立てた」
「逆に『滅私奉公』『無私の挺身』だと正面から感謝されるのも嫌だった。いいことをしていると誰も思っていないし、その業には感謝されて喜べるような甘さはなかった」

 黒川村満蒙開拓団の経緯は以下のとおりである。1942年(昭和17年)、国が進める満州移民政策に沿って、満州岐阜県黒川村の分村を築く計画に応募した家族129世帯の662人が参加した。満州で広大な農地を与えられ、無敵といわれた関東軍の護衛下で農業に従事していたのも束の間、1945年(昭和20年)に敗戦となった。
 敗戦後、現地に取り残された満州各地の開拓団は、現地住民の一斉蜂起とソ連軍によって全員自決に追い込まれる事態になっていった。そういうなか、黒川村はなんとしても帰国するという選択をして、駐屯していたソ連軍将校に警護を依頼し、その見返りに将校を性接待するという苦しい決断をした。集められた15名の女性は泣く泣くその指示に従わざるを得なかった。しかし、15人のうち4人は性病に感染するなどして現地でなくなってしまった。また、生きて帰れた11人もその恐怖は生涯付き纏い、その上中傷をされたりして故郷に戻ることはできなかった。そしてこのことは戦後長く語られることはなかった。

 そういうなか、日本で生きながらえた8人は自分たちの体験を史実として残したいという思いを抱いていたが、遺族会の意向もあり、また自分たちの家族のこともありなかなか公表できないまま月日が進んだ。他の人に迷惑が及ばないように開拓団の名前も地名も個人名も伏せて新聞社に手記を持ち込んでも、掲載を断られることもあった。

 しかし、余命もいよいよ少なくなってきて、このまま「あったこと」を「なかったこと」のようにされてしまうことに強い違和感を感じるようになった。そして、佐藤ハルエさんは実名、顔出しで公表する決心をした。彼女をそこまで決意させたものは何かというと「戦争は絶対しちゃいかん」という心からの叫びである。黙っていたら、女はいつもひどい目に会う。戦争がどんなに狂ったものかをきちんと伝えないと死んだ友達も浮かばれない。戦争の本当の姿を後世の人に伝えないとまた同じ過ちをするのではないかという思いである。

 佐藤ハルエさんは性接待だけでなく、自分の体験を全て公表した。1942年は日本がミッドウェー海戦で大敗北をした年である。このとき政府は戦況の悪化を踏まえ、満蒙開拓団の募集を中止していれば、黒川村の悲劇は起きなかった。満蒙開拓団というが、分配された家や農地は、現地の人が実際に生活として使っていたものであり、開拓ではなくまさに侵略そのものであった。国は「王道楽土」「五族協和」と言う美辞麗句のスローガンを掲げ、徳によって統治するとしていたが、全く逆の侵略であった。それを軍事力で開拓団に支給したまま、形勢が悪くなると、開拓団を置き去りにして関東軍は一兵もいなくなった。軍隊は国を守っても、国民を守らないことを知ったと語っている。
 そして、2018年、彼女たちの意を汲んで黒川村に、満蒙開拓の女性たちの史実を伝える碑文が設置された。

 2018年は、安倍政権のもとで、財務省の公文書改竄が政治問題になっていた時期である。時の政権が事実を書き換えるのに対し、市井に生きる人が史実をありのままに残そうとしていた。著者は後書きで次のように書いていた。「私たちは過去背負って生きている。不都合であろうと向き合いたくなかろうと断絶することはできない。ありのまま背負うことで未来が切り開かれる」

 都合のいいことだけを見せて、不都合なことには蓋をする。未来思考でいきましょうと言いながら不都合な面を見ないように仕向ける。これは、国家がやってきたことである。真実を見つめようとする人に対して、それは自虐史観であると批判する歴史修正主義者の常套手段である。
 黒川村の女性はそれに対し毅然とした態度を貫いた。その闘志に賛辞を贈りたい。