ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

姉を送る

f:id:battenjiiji:20201120000201j:plain
f:id:battenjiiji:20201120000250j:plain

「何が起こってもおかしくない状況です。近親者に連絡を」と医師から言われても、意識がある姉の様子を見て、まだ今日明日のこととは受け止めず、時間はまだいくらか残されていると勝手に信じ込んでいた。

 

入院翌日、午後1時からの面会時間に合わせて、面会に向かっている途中「危篤!」の電話を受ける。病室に駆け込んだ時にはベッドに静かに横たわる姉がいた。

 

何も返事しない姉を見て、さまざまな思いがこみ上げてくる。苦しいこともあったろうに、苦しい様子も見せず、黙って一人で耐えてきた姉に「何もできなくてごめんね」としか言えない。あの時こうすればよかった、ああすればよかったとしか後悔しか出てこない。姉を大事な人と常に思っているのに、どうしてもっと頻繁に姉を見舞ってやらなかったのか、どうしてもっと姉に気遣いしなかったのか、もっと姉の近くに居てあげればよかったのにと悔やみごとしかでてこない。姉がやさしいから、いつもわがままばかりしていた自分に気づく。姉から「それはダメ」と言われたことがない。いつも姉の「いいよ、いいよ。」という言葉しか聞いたことがない。いつもやさしく受け入れてもらっていたのだと今になって気づく。「姉さん、ごめんね」という言葉しかない。

 

時が慌ただしく流れて行く。通夜、葬儀、告別式と時間とともにお別れの儀式が続く。その中で聖歌が繰り返し流され歌われる。

 

姉はカトリックであった。私は仏教徒なのでキリスト教のお祈りはできないが、聖歌そのものがお祈りですという説明であった。「聖歌は神の国に旅立つ故人の魂がいつまでも幸せであることを神にお祈りする歌です。一緒に心の中で歌ってください」という説明を受けて、心から神の恵みを祈って歌う。

 

「いつくしみ深き(聖歌657番/讃美歌312番)」

いつくしみ深き 友なるイエスは、

罪とが憂いを とり去りたもう。

こころの嘆きを 包まず述べて、

などかは下ろさぬ、負える重荷を

 

いつくしみ深き 友なるイエスは、

われらの弱きを 知れて憐れむ。

悩みかなしみに 沈めるときも、

祈りにこたえて 慰めたまわん。

 

いつくしみ深き 友なるイエスは、

かわらぬ愛もて 導きたもう。

世の友われらを 棄て去るときも

祈りにこたえて、労わりたまわん。

 

 

「神ともにいまして(讃美歌405番)」

神ともにいまして 行く道を守り

天(あめ)の御糧(みかて)もて 力を与えませ

また会う日まで また会う日まで

神の守り 汝(な)が身を離れざれ

 

荒れ野を行くときも 嵐吹くときも

行く手を示して 絶えず導きませ

また会う日まで また会う日まで

神の守り 汝(な)が身を離れざれ

 

御門(みかど)に入る日まで 慈(いつく)しみ広き

御翼の蔭(かげ)に 絶えず育(はぐく)みませ

また会う日まで また会う日まで

神の守り 汝(な)が身を離れざれ

 

 

「主よみもとに近づかん(聖歌658番/讃美歌320番)」

主よ御許に近づかん

登る道は十字架に

ありともなど悲しむべき

主よ御許に近づかん

 

さすらうまに 日は暮れ、 

石のうえの かりねの 

夢にもなお 天(あめ)を望み 

主よ、みもとに 近づかん 

 

現し世をば離れて

天翔ける日来たらば

いよよ近く御許に行き

主の御顔を仰ぎ見ん

 

永遠の別れの時が来た。もはや姉を見ることもできないし、姉の声を聞くこともできない。永遠の別れは頭でわかっていても、もう二度と姉に会うことはできないと考えると気が狂いそうになる。姉を亡くして、姉に救われていた自分を知る。感謝しかない。姉さん有難う。有難う。有難う。

 

いつまでも落ち込んでいては、姉が悲しむだろうなとも考える。姉が悲しまないように生きていかなければと思う。でも昔から弱い人間である私には辛く悲しい。困ったとき、苦しいとき、誰かに話を聞いてもらいたいと思った時、自然に姉のところに行っていた。今も姉がいたら、話を聞いてくれたのになあと姉を思う。でも、姉はいない。苦しむ。姉がいたらと思う。この堂々巡りから先に進めない。弱虫な弟がこの苦しみを乗り越えるには時間がかかりそうである。