ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎港一周サイクリング2

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緑ピンからスタートとして緑ピンまで戻るコース。距離19.79km、上昇総高度188m、天気晴れ、気温18度、湿度62%

今年5月4日に「長崎港一周サイクリング」をやったので今年2回目である。9月末まで五島で仕事して10月に長崎に戻った。今日は久しぶりに長崎の風を味合うために長崎港一周サイクリングを行うことにした。今日のサイクリングではトンネルや橋を見学していこうと思う。

 

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魚見山トンネル 延長135m 2008年3月完成

地図上のトンネル1が魚見山トンネルである。 女神大橋ができて戸町地区との連絡道路としてトンネルが作られた。延長135mなので短いトンネルである。魚見山は鎖国時代に長崎港を警備するための台場が築かれた場所である。山を登っていくと魚見岳台場として遺構が残されている。

 

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女神大橋 橋長1289m 海面上65m 2005年12月完成

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女神大橋から見た長崎港

女神大橋は、長崎港によって別れている長崎市南部と西部を結ぶ橋として2005年12月に完成した。橋の下は長崎港へ出入りする大型船の通り道として、広く高く空けられている。橋の形は斜張橋と呼ばれるもので、2本の主塔から細いワイヤーでケーブルを張り、橋を吊り上げる形式で、翼を広げたような美しい姿は長崎港の周辺景観を背景として魅力的なランドマークになっている。

また、女神大橋から長崎港を見ると三つの山でできている帆場岳が正面に見える。鎖国時代、長崎に入港する船は帆場岳を目標に入港したと言われている。また反対側に見える烽火山はその名の通り烽火台が設けられていた山である。寛永15年(1638年)に築かれ、明治元年(1868年)まで存続した警報伝達機関の一つである。山頂には長崎港警備通報体制の中心的役割を果たした史跡が残されている。

 

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大浜トンネル 延長764m 2003年11月完成

地図上のトンネル2が大浜トンネルである。女神大橋の取り付け道路及び長崎西部方面の連絡道路として作られた。女神大橋と大浜トンネルができたことにより、長崎南部と長崎西部がとても近くなった。

 

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飽ノ浦トンネル 延長1559m 1998年2月完成

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飽ノ浦トンネル内部

地図上のトンネル3が飽ノ浦トンネルである。このトンネルができる前は曲がりくねった細い道路を上り下りして峠を超えていた。このトンネルができて長崎市内と長崎西部が一気に近くなった。

 

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稲佐橋

稲佐橋は浦上川に架かる橋で稲佐地区と市内を結ぶ橋である。現在の橋は三代目で、初代の橋は、明治39年(1906年)に架けられた長さ75m、幅員5.5mの市内最長の木造の橋であった。

 

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新観光丸とジャイアント・カンチレバークレーン

水辺の森公園を通ると新・観光丸が停泊しているのを発見。

「観光丸」は1855年、オランダ国王ウィレム3世から13代将軍徳川家定にスンビン号として贈呈された日本初の木造蒸気船である。
幕府は長崎海軍伝習所開設にあたり、スンビン号を「観光丸」と改名した。観光丸を勝海舟榎本武揚らが練習船として使い、航海術や海洋学の向上に役立てた。神戸から長崎への航海では坂本龍馬が乗船したことでも知られている。「新観光丸」は「観光丸」を復元したものである。

尚、ジャイアント・カンチレバークレーンは明治42年(1909年)に竣工した日本で初めて建設された電動クレーンである。110年を経た今も稼動続ける現役の巨人である。英国アップルビー社製で、輸出したスコットランドが称賛する歴史的に貴重な存在である。明治日本の産業革命遺産に指定されている。

 

今日もいい運動ができた。長崎港一周サイクリングはいつも新しい発見に出会えて楽しい。

安倍政権の取組みについて

 

日刊ゲンダイで下記の記事読んだ。

「米国になめられる安倍首相、日米貿易協定署名式で笑い者に!

10月8日(米国時間10月7日)、ホワイトハウスで開かれた日米貿易協定の署名式で、トランプ大統領がいきなり「安倍首相の誕生日を祝いたい。今日で39歳だ。」と言いだした。その後も「誕生日おめでとう。彼は特別な男だ」と繰り返したが、安倍首相の実際の誕生日は9月21日だ。今年、65歳になった。ちなみに10月7日はプーチン大統領の誕生日である。それと混同したにしても「39歳」はいただけない。会場では笑いが起きた。完全にバカにされているのだ。

日米貿易協定について、トランプ大統領は「米国の農家にとって、とてつもない勝利」と大喜びしています。安倍首相は急に「トウモロコシを買う約束はしていない」などと言い出しましたが、トランプ大統領の言い分と食い違う。一体どうなっているのか。国会にも国民にも説明がないまま急いで署名したことは、秘密にしたい内容があるのではないかとと勘ぐられても仕方がない」

 

以上の記事を読んで、安倍首相は、トランプ大統領と親密な関係にあること、日米同盟は強固な絆でむすばれていることをいつも強調しているが、実態はどうなのかと心配になった。また、世界的に決して評価が高いとは言えないトランプ大統領から安倍首相がバカにされているという内容の記事を読んで、日本の政治家は大丈夫かと心配になった。イヤ、政治家を心配しているのではない。日本の行く末は大丈夫かと不安になった。

 

そのような気持ちの中、経済ジャーナリストの荻原博子さんと経済学者の金子勝さんの対談番組を見た。タイトルは「アベ政治のまやかし  美しい国”が、売られる」というショッキングなものであった。

 

安倍首相は以前、「美しい国へ」という本を書いた。その「美しい国、日本」が「美国」に売られるという話であった。「美国」とは中国語でいうアメリカのことである。

具体的にに何が売られるかというと次の5つの項目である

1  国有林が売られる(国有林管理法改正)

2  水が売られる(水道の民営化)

3  海が売られる(漁業法改正)

4  農業が売られる(日米FTA)

5  健康が売られる(健康保険と医薬品)

 

1  国有林が売られる(国有林管理法改正)について

国有林管理法改正で国有林売り放題になった。その売買単位が広大なため地元の林業業者は参入できない。広大な国有林が超巨大企業によってパルプ用に処分されるがこの法律の欠陥は植林する義務を求めていないため国土が禿山のまま放置され、国土が荒れることが心配されている。防災上からも国有林を保持して国土の荒廃を防ぐため、林業業者の育成とバイオマス発電の発展を結びつけて行くという従来の構想は忘れられたような国有林管理法改正が行われたということであった。

日本という国は、国土の7割〜8割が山林である。これによって自然災害を防ぎ、綺麗な水を得て、豊かな海を育んできた。この豊かな循環が現政権の目先の利益のために根底から崩されている

 

2  水が売られる(水道の民営化)について

水道の民営化が法律改正によってできるようになった。水道の民営化は欧州ではすでに行われていたものであるが、欧州では民営化したために、独占企業の利益優先で水質の低下が起こり、最低レベルの水質で水道料金が値上がりしていくことから、住民の反対運動が起こり、今は公営化に戻ってきている。そういう失敗例が数多く見られる水道民営化を現政権は法律改正して日本で実施していこうとしている。日本の水道事業を外国企業に売ろうとしているということであった。

外国では水道を民営化したため料金が高騰し、住民が水道水を飲めなくなり、川の水を飲んでコレラが蔓延したという事件も起きている。

水は人間の生存に関わるものだけにビジネスにはなじまないものという認識があった。だからいままで水道事業は公営化が続けれれてきた。現政権はこの常識さえも忘れ、市場原理という観点から公営事業を売り払おうとしている。

 

3  海が売られる(漁業法改正)

海の資源の枯渇を防ぐために魚を保護していくためには漁業調整と厳格に守られているかのチェック体制が必要であるが、漁獲量の届出制に変わったことにより保護に結びつかなくなってしまった。むしろ、漁業法が改正されて乱獲OKみたいになってしまった。規模の大きい企業がこの分野に参入しやすくなる改正であった。新自由主義における市場主義は世界から厳しい批判を浴びている中、現政権の日本では今だに新自由主義が横行している。

 

4  農業が売られる(日米FTA)

日本は米国から大量の牛肉を買うことが決定した。日本の畜産、酪農は壊滅的打撃を受けることが心配されている。さらに、問題なのは安い農産物を輸入すると日本の農業従事者が減少していく。食料自給率が益々低下するという国防上の問題につながる危険が出てくる。しかし、アメリカから輸入される大規模農場で生産された安い農産物は農薬まみれという問題もある。国民の健康問題に関わる心配もある。日本の小規模農業は無農薬や減農薬で健康に良い農産物を作ることができるが、大規模農場は大量の農薬を使わないと農産物を生産できない。日米FTA交渉で問題にしなければならないのは、関税の問題ばかりでなく、アメリカの農産物の輸出に関わる農薬使用の問題である。日本ではとても認められないものが腐敗防止のためにまかれている。食の安全が脅かされている。日本の農家を守るために安全基準が大切である。食の安全基準が高まれば日本の丁寧な小規模農業も生き残れる可能性がある。食の安全基準、環境基準を崩さないでほしい。

 

5  健康が売られる(健康保険と医薬品)

健康保険財政が厳しいとと言われている中、現政権の下、データー改ざんした外資系の医薬品会社の薬品を健康保険を使って高値で購入している問題がある。外国の医薬品会社の日本市場参入を許可して、外国の医薬品会社の薬に有利な扱いをする問題が起きている。

 

1時間の対談だったが、私の知らない話ばかりで興味深く拝聴した。日本のテレビではこのような内容のある報道を聞いたことはない。

先日から、隣国のタマネギ法相の話を毎日のニュースばかりでなくワイドショーでも繰り返し繰り返し報道していたが、隣国のどうでもいいニュースより、日本の報道機関は、今日お二人から聞いた話が進行しているのに、安倍政権の中味の報道をなぜしないのかと思う。以前、官僚による安倍首相への忖度を報道していたが、報道機関も官僚同様に忖度がうまいと思ったことである。

 

 

 

 

 

 

 

新上五島町立魚目中学校の校歌に思う

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新上五島町立魚目中学校所在地

魚目中学校校歌

作詞 新村 出

作曲 信時 潔

 

1.東天しらみ 海原に

  新生の光 射しいでて

  真理に生くる 身を照らす

  ああ わが若き 生命かな

 

2.同じ郷土の 学び舎に

  進取に勇み 誠もて

  親愛の裡 身を磨く

  ああ わが若き 情かな

 

3.一つ理想に 励み合い

  日本の行くて 見つめつつ

  世界の民と 眉あげて

  進め 魚目中学校

 

妻は新上五島町出身である。先日、魚目中学校の同窓会が博多で行なわれて妻も出席した。同窓会から帰宅して、同窓会の土産話として誇らしげに話してくれたのが母校の校歌のことである。

 

母校である魚目中学校の校歌の作詞者は広辞苑の編集者としてつとに有名な新村出(しんむらいずる)博士ということであった。私は驚いた。どうして日本最西端の離島の中学校の校歌の作詞者が新村出博士なのかにわかに信じられなかった。ネットで魚目中学校のホームページをのぞいて校歌の作詞者を確認すると確かに新村出と書かれてあった。

 

なぜ新村出博士が魚目中学校の作詞をなさったのか理由を尋ねると以下の通りであった。

魚目中学校は昭和22年に開校した。昭和23年魚目中学校は校歌の作詞を郷土の偉人、潁原退蔵先生に依頼した。潁原退蔵先生は長崎県初の文学博士で、新上五島町が生んだ、日本的な国文学者である。ところが潁原先生が54歳で急逝されたため、校歌の作詞が中断してしまったことから、潁原先生の奥様が京都大学で潁原退蔵先生の恩師に当たる新村出博士にお願いして新村博士が潁原先生に代わって作詞されたということであった。新村博士は上五島には一度も行ったことはなかったが上五島の話を奥様からお聞きしてそのイメージから作詞をされたということであった。

 

私はこの校歌をみて、1番と2番は上五島の風景と風土を頭に描いて作詞されたのだと感じた。そして、3番は日本の未来を担う若人に対する思いと期待を込められたものだと強い印象を持った

      一つ理想に 励み合い

  日本の行くて 見つめつつ

  世界の民と 眉あげて

  進め 魚目中学校

この3番の詩は昭和23年という敗戦間近に作られたとはとても思えないグローバルな思想が含まれていて作詞者である新村博士の若人に対する熱い思いを強く感じる。

 

郷土の偉人、潁原退蔵博士は明治27年(1894年)2月1日、旧北魚目村小串に小学校教員であった潁原謙三と愛、夫妻の二男として生まれた。兄が早く亡くなったため、事実上は長男として生涯父母に尽くした。

博士は、十歳のとき上郷尋常小学校卒業。十五歳の時、長崎県師範学校入学、十九歳の春、東京高師に進学している。教壇には京大大学院在学中から立ち、京都女専、同志社大、府立医科大等をへて、昭和三年、京大文学部講師となった。その年まで「蕪村のおもかげ」「蕪村の生涯」「蕪村の連句」等すでに蕪村研究家として大成するための基礎的な研究を深めている。京大講師になってからの研究実績には、めざましいものがある。博士は蕪村研究だけでなく、俳諧研究の金字塔と言われる「芭蕉講座」「俳諧精神の研究」「芭蕉俳句新講」等を著わし芭蕉研究でもつとに有名である。また江戸文学、江戸文芸全体の研究でも開拓者的役割を果たしている。潁原博士は、その深い学識と円満な人柄で一大学を超え多くの門下生を育て、その門から一流の国文学者を輩出している。京都市左京区の禅寺金福寺(こんぷくじ)に潁原博士の筆塚が完成した折、恩師でもある新村出博士は、次のような歌を献じて潁原氏の学問的業績を称えた。

「子規起ちて蕪村顕わし研究は潁原博士に尽きし感あり」

潁原博士は、潁原山容ともいうべき学問の金字塔を打ち立てた郷土の先達である。潁原博士が、どれほどすばらしい国文学者であったかは、没後もその論文は再版され続け、没後三十年を経て、著作集全二十一巻が刊行された一事をもってもうなづくことができる。

 

魚目中学校の校歌は潁原退蔵博士と新村出博士という日本が誇るお二人の国文学者の尽力によって誕生したことを考えると、魚目中学校はこの上ない幸せであると思う。

お二人はすでにお亡くなりになってしまったが、校歌を歌う若人は作詞者の思いをしっかりと受け止めて未来への道を歩んでもらいたいと思う。

「長崎くんち」が始まった

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踊町の来場を待つ人々(御旅所踊場)


昨日10月7日から「長崎くんち」が始まった。「長崎くんち」は長崎の氏神諏訪神社」の秋の例大祭のことである。寛永11年(1634年)、二人の遊女が諏訪神社神前に謡曲「小舞」奉納したことが長崎くんちの始まりとされている。以来、長崎奉行の援助もあって年々盛んになり、さらに奉納踊りには異国趣味のものも多く取り入れられ、江戸時代より豪華絢爛な祭礼として評判となり現在に至っている。この奉納踊りは国指定重要無形民族文化財に指定されている。

長崎人は「長崎くんち」を「おくんち」と呼び、「おくんち」の演し物の中身は「わからん文化」と呼んでいる。「わからん」の漢字は「和華蘭」と書き、日本の和風、中国の中華、オランダの蘭からなる。この国際性溢れるお祭りの雰囲気から「長崎くんち」が「日本三大祭りの一つ」ではなく、「本朝随一の祭り」と言われる所以である。

待ち時間にアンコールを意味する「モッテコーイ」や素晴らしいよくやったを意味する「ヨイヤー」などの掛け声の練習をしながら踊町の到着を待つ。

 

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長崎くんちの奉納踊りは長崎旧市内の各町が担ってきた。旧市内各町を七つに分け7年に一度踊町として奉納する。長崎くんちを全て見るためには7年かかることになる。今年は上記の五ケ町が7年ぶりに誇りと熱意を込めて踊りや演し物を奉納する

 

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今博多町 傘鉾

傘鉾は町の印を表すもので、踊町の行列では先頭の傘鉾の前を歩くことは許されない掟がある。今博多町の傘鉾は神楽を奉納するという意味合いから中央に三社紋をつけた火焔太鼓、鼓、榊を置く。神に通じる飾りものを配するので輪はしめ縄。垂れは塩瀬羽二重、亀甲形に鶴の文様入り三社紋織り出し。

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「今日爰祭祝鶴舞」(きょうここにまつりをいわうつるのまい)

今博多町は昔から本踊りを奉納してきた町である。「鶴の港」と例えられる長崎港にちなみ、奉納踊り「今日爰祭祝鶴舞」では諏訪神社の秋の大祭を祝うために長崎港から飛んできた六羽の鶴を表現している。踊子全員が動きを揃えて白い長絹の衣装を翼のように翻し、円や列になってしなやかに舞う様子は実に優雅である

 

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魚の町の傘鉾

ビードロ細工の飾物は市指定有形文化財。タイ、エビ、ワセ、魚籠、うたせ網を中にして葦を配す。製作は町内の玉屋硝子細工所。寛永6年(1853年)の作。輪は蛇籠にさざれ石。垂れは正絹無双に曙ぼかし織。

 

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魚の町 川船

昔、この町に魚市場があったので今魚町と呼ばれており、それにちなんで川船を奉納するようになった。根曳の数は8名×2列の16名 で、補欠なしという緊張感の中練習を重ねてきた。根曳方も囃子の子供たちも全員男子で編成が伝統。

 

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魚の町川船 網打ち船頭による投げ網

網打ち船頭による投げ網は二回行い二回とも大漁であった。この晴れ舞台で小学四年生の網打ち船頭が見事な網打ちを披露すると、会場は万雷の拍手に包まれた。

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魚の町 川船 船回し

屈強な根曳衆が力を合わせて披露する船回しはキレのある動きに定評があり、激流に川船がもまれる様子を表現する。「右2回転半」という古式にのっとった整然たる船回しを見事に演じきっていた。

 

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玉園町 傘鉾

諏訪神社が建つ玉園山に町名が由来し、飾物には神具の八足、冠、鈴、中啓をあしらう。その隣に玉垣で囲った生木の榊を配し、神域を示す。輪はしめ繩飾り。垂れは塩瀬羽二重の生地に、前日は旭を背景に浮かぶ曙の瑞雲、後日は秋の七草と二種類の模様を披露する。

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玉園町 獅子踊

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玉園町 獅子踊

長与町に伝わる獅子踊を奉納する。獅子は7色の長毛が特徴。2人一組で親獅子七頭子獅子二頭によるダイナミックな踊りを披露する。かたぐるまで背伸びして牡丹の蜜を吸う「花しぶり」や勢いをつけて前転する「牡丹返し」など高い技術が必要とされる大技が披露されると拍手が鳴り響く。

 

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江戸町 傘鉾

朱塗り杯とVOC(東インド会社)の社章が入った染め付け皿を猫足台に載せ、下に洋酒の瓶を配する。朱塗杯に描かれる模様は、オランダ商館長が江戸町に贈ったとされる町章(タコノマクラ)。輪はビロードで表に「江戸町」、裏に「Jedomachi”」とある。垂れは塩瀬羽二重に三社紋を金糸刺しゅう。

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江戸町 オランダ船とオランダ小船

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江戸町オランダ船 船回し

洋楽器の華やかな囃子とともに、ロイヤルブルーのオランダ船が入場。帆先には赤、白、青のオランダ国旗と日本国旗、形が似ていることから「タコノマクラ」の名で親しまれている町章がはためく。子供たちによるかわいらしい「オランダ小船」も登場して場を盛り上げる。そして最後はオランダ船の大航海を勇壮な船の引き回し、船回しで再現する。

 

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籠町 傘鉾

飾物は唐楽器で統一されている。龍の声を鳴らす金色のラッパに紅白のちりめんを結びつけて垂らし、銅鑼に立てかけて配す。両面太鼓の「鞨鼓」には裏に町名、表皮に双龍を描き、銅鑼には「本加護満知」と記す。輪は白紋繻子。正面に宝珠、左右に阿吽の双龍を描く。垂れは白茶地に金糸で龍紋の織り出し。

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籠町龍踊 「ずぐら」

 

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籠町 龍踊 玉追い

唐楽拍子による3種のリズムと爆竹音のなか、玉使いと龍衆(じゃしゅう)10人の勢いある技が、生きた龍のごとくダイナミックに演出する。

中国楽器の特に龍の声と言われる長ラッパの響きが耳に残る。走り、うねり、胴くぐりの「玉追い」と、とぐろを巻いて玉を探す「ずぐら」という、静と動のメリハリのある動きに引き込まれていく。

10人の龍衆に命を吹き込まれ猛々しく踊り狂う、空中を乱舞する龍踊に「モッテコーイ」の声が鳴り止まない。

 

御旅所踊場で連続3年「おくんち」を見続けている。でもまだ半分にきていない。まだまだあと四年続けないと完結編に至らない。今年も全ての踊町からおくんちにかける意気込み、熱意を感じることができた。神様も大喜びになったに違いない。今年も感動の連続であった。

マリア様に似た女性

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ロザリオのサンタマリア(堂崎教会)


職場に若い頃から勤めている女性職員Aさんがいる。

堂崎教会のマリア様の写真を撮っていた時、マリア様に似た女性をどこかで見たことがあるような気がするなあと思いながら、ファインダーを通してマリア様を見ていたら、若い頃のAさんはマリア様に似ていると一瞬思った。造形に違いはあるが、目鼻立ちがくっきりしているところはマリア様と同じで、その目鼻立ちのくっきりさが強い印象を与えている。また、似通った造形美というだけでなく、Aさんの若い頃の面影は柔らかな目付き、陽気で穏和な人柄、麗らかな気分などを思い出す。それらからマリア様のやさしさと共通するものを感じたのかもしれない。

 

Aさんに用事を頼む時、このマリア様を最大限に利用しようと思った。

 

先日、Aさんに用事を頼む時がきた。私はAさんに「お願いがあるんですが、実はこれを郵便局に出してもらいたいんですが、いいですか?」と切り出した。「忙しいから今日はダメです」と断られると思ったところ、「はい、いいですよ」と引き受けてくれた。

 

私はAさんに「断られた時のための奥の手を考えてきてたのに!」と言うと、Aさんは笑いながら「それじゃ断わりますか?はい、それじゃ、断ります。忙しいからダメです。」とすぐに話に乗ってくれた。

 

そこで、私は携帯の写真フォルダからマリア様の写真を取り出し、Aさんにマリア様の写真を見せて「このマリア様は若い時のAさんに似ていない?私はこの写真を見て、若い時のAさんはこのマリア様にそっくりだと思ったよ。」と話をする。Aさんは写真を一目見て、面白そうに仰け反って笑う。そして、笑いながらも、手を横に振っていやいやと否定する様子を見せている。「いやいや、似てない。似てない。そんなにマリア様みたいに綺麗じゃない」と否定する。私は「若い時のAさんによく似てるよ。今じゃないよ。若い時よ。このマリア様は二十代ですよ。Aさんが結婚する前の頃と良く似てるよ。スタイルといい顔立ちといいそっくりよ。瓜ふたつよ。」と強調する。

笑いが収まる頃合いを見て、「お願いの件いかがでしょうか?やっていただけますか?」と切り出すと、笑いながら「何でもやりますよ。任せてください。」という返事があった。任せて下さいという言葉が出るところからすると奥の手は効果てきめんと見ていいと思った。

 

この奥の手を使っても効果が出ないようであれば、最後の奥の手を使う予定であった。最後の奥の手は「二十代の頃と良く似ているのは当然ですが、五十代の今も変わらずよく似ていますよ。スタイルといい顔立ちといいそっくりですよ。」と続けるつもりでいた。

 

最後の奥の手をAさんに話をしたらこれも大笑いしていた。そして即座に「そこまで言っていただけるなら、喜んで、積極的に何でもやります」と言っていた。その乗りの良さにいつも救われる。

 

私も最後は、「お願いするからお世辞を言っているのではないですよ。本心でそのように思ってますよ。」と付け加えるのを忘れない。

五島列島キリシタン物語 日帰りツアー

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五島列島キリシタン物語 「久賀島奈留島編」の日帰りツアーに参加した。あいにくの雨であったが、充実した1日を過ごすことができた。

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久賀島定期船シーガル

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シーガルのグラスボート内部

8時50分福江港五島市観光協会に今日の日帰りツアー参加者全員集合。予定通り定期船シーガルにて久賀島の田ノ浦港へ出発。シーガル号は半潜水式グラスボート仕様になっており海中公園周遊に使用されているということであった。福江島近辺の海は透明度が高くサンゴ・熱帯魚・海藻類を楽しめるようだ。

 

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浜脇教会遠望

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三角の鐘塔が特徴の浜脇教会

出航して15分ほどすると進行方向右手に教会が見えてくる久賀島の浜脇教会である。最初の浜脇教会は、迫害を乗り越えた久賀島の信徒たちによって1881年(明治14年)に建立された。当時の木造の教会は増え続ける信徒の数に対応できなくなり、1931年(昭和6年)五島で最初の鉄筋コンクリート造教会として建築した。戦争時代は白亜の教会は目立つことから黒く塗られた時代があった。(木造の旧教会は五輪教会堂として五輪地区に移築)

 

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「牢屋の窄」記念石碑

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牢屋の窄殉教記念聖堂

次に牢屋の窄殉教記念聖堂に行く。「久賀島カトリック信徒囚獄の跡」の説明文を読む。「江戸幕府に続く明治政府のキリシタン弾圧により、明治元年九月、久賀島の信徒が捕えられ、激しい火責め、水責め、算木責めの拷問を受けた。牢屋の窄では6畳の間に老幼男女200名が収容され、人間の密集地獄に閉じ込められ、身動きすることも困難な中、飢えと苦痛から在牢八ヶ月で殉教者39名に上った。」

明治政府が絶対主義神道国家確立のため祭政一致を唱え、その政策遂行のためカトリック信徒を弾圧したものである。近代史にこのような事実が行なわれてきたことを知って愕然とする。久賀島カトリック信徒はあどけない幼児から老人に至るまで超人的精神力をもって、この比類ない弾圧の苦痛を耐え忍び、信仰の自由と良心の尊厳とを身をもって主張し信仰を守ってきた。信徒の不屈の精神に人間としての偉大さを思う。

 

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五輪教会堂外観

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五輪教会堂内部(リブホールド天井と祭壇)

次に旧五輪教会堂へ行く五輪教会堂への道は車は通わない。舗装もされていない山道を500mほど歩いて進む必要がある。集落そのものが文化遺産として世界遺産登録されている地域なので、歩道の舗装化などの人工的な変更は簡単にできないらしい。今日は雨の一日で山道は滑りやすい。くれぐれも転倒などしないように小幅な歩みで進むよう注意を受ける。また、杖も準備されていて助かった。

旧五輪教会堂は昔の浜脇教会を移築したもので、国の重要文化財に指定されている。長崎県にある教会堂としては長崎市大浦天主堂(国宝)に次ぐ古さを持つも木造教会であり、創建当時の姿を残している貴重なものである。

ガイドさんの説明によると、歌手の五輪真弓さんの先祖はこの五輪地区出身で、五輪真弓さんのお父さんは若い頃この旧五輪教会堂のオルガンを弾いていたという話であった。

 

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奈留海上タクシー「あやかぜ」

五輪教会堂の写真を撮っていたら、「次はタクシーで移動しますから五輪教会堂の前の岸壁に30分に集合して下さい」といわれたので岸壁に集合した。タクシーはどこから来るのかと道路をさがしても、車が通れるような道路はない。ここでいいのだろうか?と不安になっていたらガイドさんが来た。「あれに乗ります」と言うガイドさんが指す方向を見ると海上タクシーが目の前に来ている。タクシーはタクシーでも離島では海上タクシーのことをタクシーと言うらしい。それに乗船して奈留島に移動。

 

 

奈留島に到着したら江上天主堂へ向かう。江上天主堂に向かう途中、ガイドさんの説明が続く。奈留島のこの地区は野茂英雄さんのお父さんの出身地です。今も実家がありますし、お墓もあります。と言って野茂投手のお父さんの実家を案内してくれた。野茂英雄さん自身も法事などで何度もこちらを訪問されていて、地元の方とも気さくにお酒を酌み交わすなど地元の人気は抜群です、などと話されていた。

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江上天主堂外観

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江上天主堂東壁

この江上天主堂は、教会建築の父と言われる鉄川与助氏が手がけたもので、木造ロマネスク様式の天主堂として最も完成度が高いと評価されている。左右対称のシンプルな外観と純白に彩られた板張りの外壁がこの教会の特徴である。また、内部はアーチ型の美しい天井、木目塗りの珍しい装飾が美しく、価値の高い建築様式であり、平成20年には国の重要文化財に指定されている。また、湿地帯であったことから

高床式の作りになっており、また教会堂として珍しく屋根に十字架を設置していない。そのかわり東壁に朝日を受けて十字架が光で浮き出る工作がこしらえてあり、幻想的な十字架を目にすることができる。

 

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福江奈留島定期船 ニューたいよう

奈留島観光を終えて奈留港ターミナルに向かっているとスピーカーから荒井由実さんの「瞳を閉じて」の曲が流れてきた。「風がやんだら沖まで船を出そう   手紙に入れたガラスびんを持って   遠いところに行った友達に   潮騒の音がもう一度届くように   今   海に流そう・・・・」ガイドさんの説明によると、その昔、奈留高校が誕生したばかりの頃まだ校歌ができていなかったことから、在校生が荒井由実さんに校歌を作って欲しいとお願いしてできた曲が「瞳を閉じて」という曲で、今は、奈留高校の愛唱歌になっているらしい。奈留島ではこの曲がよく流れているらしい。奈留島にぴったりの曲である。この曲を聴きながら福江行きの定期船「ニューたいよう」に乗船して帰路に着いた。

 

 

 

万葉の里を訪ねて

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9月15日は「遣唐使ゆかりの地を訪ねて」という目的で三井楽町に行った。三井楽町のあちらこちらを歩いていると思いがけない古代にまつわる歌碑を見つけた。これらの歌碑を見て歩きながら三井楽町は「万葉の里」と呼ばれていることを知った。

 

古代の五島列島は、「古事記」、「肥前国風土記」、「日本後紀」、「続日本後紀」、「蜻蛉日記」「万葉集」などにその名を留めている。それらに出てくる「値嘉」が現在の五島であり、古代より五島の存在価値が認められていたことがわかる。さらに、万葉の時代には三井楽は遣唐使船日本最後の寄港地として賑わいをみせていた。三井楽町の公園にはその歴史の面影を今に伝えようと、「万葉集」や「蜻蛉日記」のゆかりの歌碑が設置されていた。遠く中国(唐)につながる西方の海を眺めながら散策し、歴史や歌を楽しんだ。

 

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万葉集巻九ー1791番 読み人知らず (三井楽町 柏崎公園)

「旅人の  宿りせむ野に  霜降らば  我が子羽ぐくめ  天の鶴群」

「旅に出たわが子が、霜の降りる野で困ることがあったら、どうか天の鶴たちよ、私の子供をその温かい羽で守ってやっておくれ。」

この歌は、遣唐使として旅立つわが子の無事を祈る母の歌である。天平五年(733年)第9次遣唐使船の出航の時、旅立つ我が子の無事をひたすら願って詠んだ歌である。

渡唐した子供に思いを馳せる遣唐使の母は、まともに海路を進んだ後も、さらに続く二ヶ月に及ぶ陸路の旅を想像し、その苦労を案じて渡り鳥の“鶴”に思いを託す。その母の思いを鶴が

叶えてくれることに願いをこめた歌である。

遣唐使船は当時の拙い造船技術や航海技術などからまさに命懸けの航海であった。唐の優れた文化を吸収するという目的から多くの人たちが遣唐使に選ばれ派遣されたが、嵐に遭遇し4分の一は還らぬ人となった。

ここ三井楽町柏崎という最果ての地である「辞本涯」に立ってこの歌を詠むと母親のわが子を思う心情を感じ、まさに感慨深いものがある。
 

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蜻蛉日記 右大将道綱母(三井楽町 白良ヶ浜万葉公園)

「ありとだに  よそにても見む  名にしおわば   われにきかせよ   みみらくの島」
 「みみらくの島よ、そこには亡くなった人がはっきりと見えるところがあるという。本当に、噂通りなら何処にあるのか私に教えておくれ。せめて遠くからでも母の姿を眺めていたいから。」

注 当時、三井楽は「みみらく」と呼ばれ、亡くなった人が甦るという霊的な力を持つ

     聖地と思われていた。

蜻蛉日記」は、右大将藤原道綱の母(995年没)の日記で、摂政関白の夫は多くの妻を持ちその心変わりを恐れ、女性としての悩み苦しむ日々の辛さ、はかなさを綴ったもので、女流日記の文学の始まりとされている。上中下巻からなるその上巻にこの「みみらくの島」が詠まれており、この歌が詠まれた背景が次のように記されている。

「夫の心変わりを恐れ悩んで暮らすこと10年、その間この上なく慰め励まし、力づけてくれた最愛の母親が亡くなった。山寺で喪に籠る中、悲しみはつのるばかりで、遂に病の床につき、病魔払いの祈禱僧らが祈祷合間の雑談に「みみらくの島に行けば、亡くなった人が遠くに現れて会える」と話しているのを耳にし「母に会いたい」願いを詠んだ歌である。

 

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蜻蛉日記 右大将道綱の母の兄(三井楽町 高崎鼻公園)

「いずことか  音にのみきく   みみらくの   島がくれにし   人をたずねむ」

「いったい何処なのだろうか、噂に聞いているみみらくの島は、その島の岩陰に隠れて、亡くなってしまわれた母上を訪ねていきたい。」

亡くなった人がはっきりと見えるというみみらくの島を想像し、遠くからは見ることができても近づけば消え失せる母の姿を島の岩陰に隠れてそっと消えないように見てみたいという思いを歌っている。

 注 右大将道綱の母が亡き母を偲んで、歎きつつ「ありとだに  よそにても見む  名にしおわば  われにきかせよ   みみらくの島」を詠み、それを聞いた兄も泣く泣くこの歌を詠んで慰めたといわれている。

 

三井楽町が古代「みみらく」と呼ばれていたこと、そして「みみらく」は最果ての地でそこは亡き人に会える場所であったことを今回知った。悲しみが癒えないとき、もう一度会いたいと思うとき、「みみらく」はその苦しみを和らげてくれる地であったことを知って、古代どうしてそのような噂話ができたのか由来はわからないが、そのやさしさはわかるような気がする。

 

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万葉集3860番 筑前国志賀の白水郎の歌 読み知らず(三井楽町 白良ヶ浜万葉公園)

「おおきみの  遣わさなくに   さかしらに   行きし荒雄ら   沖に袖振る」

筑前国志賀の白水郎の歌(ちくぜんのくにしがのあまのうた)

 

天皇の命令でもないのに、自ら進んで友に代わり出かけていった荒雄が、沖の方で袖を振っているよ。」

志賀(福岡県志賀島)に住む荒雄が、友人に代わり、対馬の防人に食料を運ぶ船頭として旅立つ。荒雄は三井楽より船立ちして対馬に向かうが、途中嵐にあって遭難し、帰らぬ人となった。

 

三井楽町を歩くと古代(奈良時代平安時代)の人々の声が聞こえる。それは人間の心の叫びだったり、人間の生業を感じさせる声だったりする。そして、その声は今も私たちと同じ価値観で繋がっていると感じる。古代の人々は遠い昔の人々であるが、今も尚、身近な人々であると感じる。