ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪 その5「宮の下公園から蛍茶屋」

青点をスタートして矢印方向に進み赤点までのコース。距離4.1km、最低高度12m、最高高度57m、総上昇高度76m、消費カロリー529kcal、天気晴れ、気温21度、湿度71%

 

今日の歴史文化探訪のスタート地点は中島川沿いにある宮の下公園である。 中島川に架かる石橋群は、人々の生活を支え、江戸と長崎を結ぶ文化の架け橋でもあり、寺町の各寺へと続く門前橋でもあった。スタートして石橋を見ながら進んでいく。

 

 

左:一覧橋     右:古町橋

一覧橋(いちらんばし)は1657年(明暦3年)豪商で唐通事の高一覧によって架設された。1721年(享保6年)、1795年の(寛政7年)の大洪水で崩壊したが、そのつど再建されて現在に至る。古町橋は1697年(元禄10年)に貿易商河村喜兵衛と母・妙了尼(得度尼)の私財で架設した。度々の大洪水による崩壊の後、官命により奉行の費用で再建し現在に至る。

 

左:編笠橋(あみがさばし)            右:桃渓橋(ももたにばし)

編笠橋は1699年(元禄12年)豪商岸村夫妻が私財で架設したものである。度々の大洪水による崩壊、架設のくりかえしで現在に至る。桃渓橋(ももたにばし)は1679年(延宝7年)僧、卜意(ぼくい)が在留唐人たちに寄付を募り架設した石造りアーチ橋である。そのため、桃渓橋は別名卜意橋(ぼくいばし)とも呼ばれる。ほとんどの石橋は大洪水によって流失と再建を繰り返して現在に至るが、1634年(寛永11年)に架けられた日本最初の石橋である眼鏡橋と桃渓橋は流失の記録がない。眼鏡橋と桃渓橋は昔の姿をそのまま残す貴重な石橋である。

 

鎮西大社、諏訪神社の前を通っていく。1570年大村純忠によってキリスト教領地(イエズス会領)となった長崎では寺社は全て焼き払われ無くなっていた。その後、キリスト教禁止令が出され、1625年(寛永2年)に佐賀唐津の修験者である初代宮司青木賢清が諏訪社、森崎大権現、住吉大明神の三社の御神体を譲り受け諏訪神社を再建したのが始まりである。諏訪神社は1914年(大正3年)に、日本で初めて英文おみくじがお目見えした神社である。

 

 

諏訪神社の大鳥居の前で一礼して次の松の森神社へ進む。すぐにマクドナルドと森山栄之助の顕彰碑を見つける。

「ラナルド・マクドナルド(1824~1899)は、未知の国・日本への憧れをいだき、捕鯨船員として北海道近海で漂流民を装って利尻島に上陸した。取り調べを受け、その後長崎に送られ崇福寺の末庵である大悲庵の座敷牢に収監された。マクドナルドが日本文化に関心を持ち、聴き覚えた日本語を使うことから、長崎奉行が英会話の指導を依頼し、マクドナルドは日本初の英語母国語(ネイティブ・スピーカー)英語教師として森山栄之助ら14名の阿蘭陀通詞に英語を教授した。

森山栄之助は下級通詞であったが、マクドナルドに優秀と評価されていたためにその後のプチャーチンのロシア艦隊やペリーのアメリカ艦隊が来航した際の通訳に抜擢され、その後も明治維新に至る外交交渉において主席通訳として活躍した」とあった。長崎が日本における英語教育の草分けであったとは知らなかった。

 

松森神社へ行く。松森神社は諏訪神社伊勢神宮と共に長崎三社に数えられ、古くから市民に親しまれている神社である。この神社には「職人尽し」という県指定有形文化財がある。「職人尽し」は本殿の瑞垣の欄間に中世職人風俗を彫刻彩色した鏡板を嵌め込んだもので30枚ある。この彫刻の職人風俗の精緻な描写は歴史民族資料としても、美術品としても高く評価されている。

 

ルイス・デ・アルメイダポルトガルリスボン出身で1552年(天文21年)来日した。当初は豊後府内で布教活動を行い、私財を投じて乳児院や病院を設立した。1567年(永禄10年)、長崎甚左衛門より迎えられ、この地を与えられたアルメイダはここに布教所を設け布教と医療活動を行なった。1569年(永禄12年)「小さいながらも美しい教会」と謳われたトードス・オス・サントス教会がこの地に建立され、「セミナリオ」「コレジオ」及び「活版印刷所」が有馬からここに移された。しかし、教会の建物は1619年(元和5年)キリスト教禁教令によって破壊された。その後、1640年(寛永17年)春徳寺が跡地に再建された。

 

左:水神神社の鳥居        右:河童石(別名ドンク石とも呼ぶ)

本河内の水神神社へ行く。この神社はもともと市内の中心部にあったが、市街地の拡大に伴い1920年(大正9年)現在地に移転した。この神社には河童石という石がある。神職が、祭事などで神殿にお供えしたいものを「河童の献立」と書いた紙に書いて、この石の上に載せておくと、次の日にはその品物がこの石の上に置かれていたという。

本河内低部水源地堤体

長崎には大きな河川がなく、さらに市街地の多くが埋立地のため、良質な水が得られず昔から飲料水の確保に悩まされてきた。明治になって人口急増に伴い、長崎県令/日下義雄らは近代上水道を敷設することを決定し、1891年(明治24年)に日本初の貯水ダムとして本河内高部水源地が完成した。長崎は横浜、函館に次ぐ全国3番目の近代水道設置都市となった。さらに人口拡大に伴い、1903年(明治36年)本河内低部水源地、1904年(明治37年)西山水源地が完成した。

 

今日も歴史文化探訪で新たな発見があった。長崎は鎖国時代だけでなく、近代日本の幕開けにおいても、さまざまな事業で草分け的役割を果たしてきたことがわかった。水道事業も然りである。都市のライフラインである清潔な水の確保のために山を削りトンネルを掘りダムを作りある限りの知恵と労力を注いで水道事業が完成したことを思うと先人の努力に感謝で一杯である。それなのに現政権は水道事業は儲からないから外国企業に売り払うということをしている。外国企業は利益を上げるため水質が低下するという事例が世界で多発したというニュースを聞く。それでも、水道事業を売るという方針の自民党政権には呆れるしかない。日本の為政者こそ、歴史文化探訪をして先人の水道事業への取り組み姿勢を学んで欲しいと思う。