ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎散歩

 

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今日は用事があって長崎市立図書館に来た。長崎市立図書館は市内中心部にある。この図書館が開館されるまで、日本の都道府県庁所在地のうち長崎市のみが市立図書館を持たなかった。長崎市民にとっては待望の図書館である。開館後は1年間で入館者数118万人、貸出冊数163万点に及びかなりの盛況を呈しているようだ。

 

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私は郡部に住み、郡部にある図書館を利用しているので普段ここには来ない。市内中心部に来たついでに、せっかくだからぶらぶらと近くをさるくことにした。長崎市立図書を出発してサント・ドミンゴ教会跡地を通って眼鏡橋に行くコースでさるくを楽しむことにした。(さるくは長崎弁でぶらぶらする意味)

 

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左:新興善小学校校舎写真     右:二宮尊徳銅像

まず、ここ長崎市立図書館は、2008年(平成20年)に長崎市の中心部にあたる長崎市興善町(こうぜんまち)の新興善小学校跡地に開館した図書館である。小学校跡地の庭園にはその面影を残すように二宮尊徳さんの銅像が建っている。二宮尊徳さんの銅像は、昔は歴史の古い小学校にはよく見られたが、今は“歩きスマホの禁止”の意味合いから“歩き読書”も教育上良くないということなのだろうか、小学校の校庭からだんだんと撤去されているらしい。時代の移り変わりが感じられる話である。

 

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ここ新興善小学校は、昭和20年8月、原子爆弾により負傷した数千人の被爆者を収容し治療した特設救護病院跡地でもある。図書館の一角に救護所メモリアルとして当時の状況を撮影した写真や当時の診察室が再現されてあった。

 

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救護所メモリアルには、当時、診察室や病室として使われた教室が再現されてあった。そして、そのガラス戸には見たこともない惨状に驚きながらも必死に治療をした医師や看護師の方が書いた手記が貼られていた。「小学校の前でトラックから飛び降り目にしたものは、原爆でボロボロになった着物をまとった人、ガラスの破片を身体中にあびた人、表も裏も判別できないほど焼け焦げた人、あまりの地獄絵に身もすくみ恐怖で髪の毛が逆立つ思いでした。これほどの惨事は、本当にこの世のものではありませんでした。」それらの手記を読みながら、二度とこのような惨事を起こしてはいけないという思いを強くすると同時に、平和の尊さを実感する。

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次に、「サント・ドミンゴ教会跡資料館」に行く。この資料館のことは知っていたが訪問するのは初めてである。長崎は元亀2年(1571年)に長崎港に突き出た岬の先端に最初の町が作られて以来、キリスト教と深く関わりのある町になっていった。長崎の町には多くの教会やキリスト教関係施設が建てられ慶長2年(1597年)頃には長崎の住民の殆どがキリシタンであったと伝えられている。サント・ドミンゴ教会は1609年に建てられたが、5年後の1614年に禁教令によって破壊された教会である。残された資料をもとに、小学校の建替え工事の際に発掘調査を行ったところ、江戸時代初期のサント・ドミンゴ教会跡の石畳や排水溝の遺構、大量の花十字紋瓦やメダイなどの遺物が出土し、長崎とキリシタンとの深い関係や長いキリスト教弾圧を物語る大変貴重な文化遺産であることから、小学校の敷地を一部変更して「サント・ドミンゴ教会跡資料館」が新設された。

サント・ドミンゴ教会の遺跡から5箇所の敷石が発見されている。当時のヨーロッパ人にとって、敷石は一般的なものでこの敷石が教会遺構の特徴であるらしい。敷石は異国様式を伝える石畳として貴重なものと解説にあった。この地で、建設当時は喜びの賛美歌が響き渡ったことだろう。しかし、その喜びも束の間、わずか5年で迫害を受け破壊される教会を見て400年前の人々の苦しみ悲しみはいかばかりであったろうかと思う。教会破壊は長い禁教の始まりであった

 

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花十字紋瓦は16世紀から17世紀初めにかけて製作使用されたものでサント・ドミンゴ教会跡地からは85点が出土している。教会施設にこの瓦が用いられていたことを示している。

 

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その後、中島川公園を散歩する。ここは日本で一番古い石造りアーチ橋である眼鏡橋が架かる川沿いの公園である。本来なら石橋郡を眺めながら散策する観光客が絶えない場所であるが、今はコロナで人通りがない。早く、コロナが終息してまた賑わいが戻ることを願わずにはいられない。

 

 

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のんびり、静かな公園を歩いていたら、「原子爆弾投下照準点」と書かれた案内看板を見つけた。地図を見ながら案内文を読む。「1945年(昭和20年)8月9日午前11時2分広島に次いで長崎に原子爆弾が投下された。この原子爆弾の第一目標は小倉市街地であったが、当日、小倉上空の視界が悪かったことから、第二目標の長崎市街地に変更された。長崎市の投下目標地点は眼鏡橋付近とされていた。ところが当日、雲に覆われていたため、原爆搭載機から目標地点を確認できず、浦上川流域の軍需工場が雲の切れ目から確認されたことにより、長崎北部の浦上地区に投下されることになった。」という説明されていた。もし投下目標地点が予定通り実行されていたら、被害はさらに甚大であったと思われる。核兵器は、子供や女性、非戦闘員も区別なく殺傷する無差別大量破壊兵器である。人類にとって、この惨劇をこれ以上繰り返してはならない。長崎を最後の被爆地にしなければと強く思う。

長崎の中心地をぶらぶら歩いてみた。遠藤周作さんが長崎のことを「どこにたたずんでも古い葡萄酒の味がする町」と本に書いていたことを思い出す。どこを歩いても長崎は歴史の匂いがするということだろうか。遠藤周作さんの気持ちが少しわかったような散歩であった。