ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「日本はなぜ、『基地』と『原発』を止められないのか」を読む その1

矢部宏治氏の著書を読んで暗澹たる気持ちになった。矢部氏は著書の中で次のように語っていた。「沖縄本島に行き、少し高台に上って遠くを見ると、普天間基地から飛び立った米軍機が、島の上をブンブン飛び回っている様子がよく見える。市街地の上を低空飛行する姿を日常的に見ることができる。米軍機は日本の上空をどんな高さで飛んでもいいことになっている。沖縄以外の土地ではそれほどあからさまに住宅地を低空飛行したりしないが、やろうと思えば日本ではどんな飛び方もできる。そのような法的権利を米軍は持っている。でもそんな米軍機が、そこだけは絶対に飛ばない場所がある。基地の中にある米軍関係者の住宅エリアである。こうしたアメリカ人が住んでいる住宅の上では、米軍機は絶対に低空飛行訓練をしない。なぜかと言うと、墜落した時に危ないからである。つまり、沖縄では米軍機はアメリカ人の家の上は危ないから飛ばないけれども、日本人の家の上は平気で低空飛行する。事故を起こした沖縄国際大学の上でも相変わらずめちゃくちゃな低空飛行訓練を行っている。彼らは、アメリカ人の生命や安全についてはちゃんと考えているが、日本人の生命や安全については一切気にかけていないということである。これはもう誰が考えたって、右とか左とか親米とか反米とか言ってる場合ではない。

沖縄の米軍基地を考えると、沖縄本島の面積の18%が米軍基地になっている。さらに上空は嘉手納基地を中心に半径90km高度6000mの沖縄県が全て収まる嘉手納空域という管理区域が設定されており嘉手納空域は100%アメリカに支配されている。沖縄では、アメリカが二次元では18%の支配であるが、上空を含む三次元では100%の支配である。そこでは、米軍機はアメリカ人の住宅上空以外、どこでも自由に飛べるし、どれだけ低空を飛んでもいい。何をしてもいい。日本の法律もアメリカの法律も適用されない状況にある。

さらに言えば、実は地上も潜在的には100%米軍に支配されている。どういうことかと言うと、例えば米軍機の墜落事故が起きたとき、米軍はその事故現場の周囲を封鎖し、日本の警察や関係者の立ち入りを拒否する法的権利を持っている。これは『日本国の当局は、所在地の如何を問わず合衆国軍隊の財産について、捜索、差し押さえ、または検証を行う権利を行使しない』(日米行政協定第17条を改正する議定書に関する合意された公式議事録。1953年9月29日/東京)という取り決めがあり、現在でも効力を持っているからである。

この取り決めの最も有名な例が、2004年に起きた沖縄国際大学米軍ヘリ墜落事故である。普天間基地の隣にある沖縄国際大学に訓練中の米軍ヘリが墜落し爆発炎上した。死傷者が出なかったのは奇跡中の奇跡と思えるほどの大事故であった。事故直後、隣接する普天間基地から数十人の米兵たちがフェンスを乗り越え、沖縄国際大学になだれ込んで、事故現場を封鎖した。そして自分たちが事故を起こしておきながら『アウト、アウト』と怒鳴りつけて事故現場周辺から日本人を排除し、取材中の記者からもビデオカメラを取り上げようとした。つまり米軍機が事故を起こしたら、どんな場所でもすぐに米軍が封鎖し、日本側の立ち入りを拒否することができる。それが法的に決まっている。いきなり治外法権エリアにすることができるのである。一言で言うと、憲法が全く機能しない状態になる。沖縄の人たちは普段はみんな普通に暮らしていても、緊急時にはその現実が露呈する。米軍は日本国憲法を超えた、それより上位の存在だということが、この事故からよくわかる。『沖縄の人はなんてかわいそうなんだ』と思うかもしれないが、それは本土で暮らす人にとっても同じことである。

どんな場所であろうと、米軍の財産について日本政府は差し押さえたり調べたりするとできないというのは、アメリカと沖縄ではなく、アメリカと日本全体で結ばれた取り決めである。沖縄に限らず東京や神奈川でも、米軍機が墜落したら状況は基本的に同じである。日本側は機体に指一本触れることはできないし、現場を検証して事故の原因を調べることもできない。米軍が日本国憲法を超えた存在であるというのも、日本全国同じことである。占領が終わり、1952年に日本が独立を回復した時、そして1960年に安保条約が改定された時、どちらも在日米軍の権利ほとんど変わらず維持されたという事実が、アメリカ側の公文書で分かっている。つまり米軍の権利については、占領期のまま現在に至っているということである。占領軍が在日米軍と名前を変えただけで中身は何も変わっていない。

日本は法治国家である。それなのに、なぜ国民の基本的人権をこれほど堂々とを踏みにじることができるのか。なぜ、こんなめちゃくちゃなことが許されているのか。調べていくと、米軍駐留に関するある一つの最高裁判決によって、米軍については日本の憲法が機能しない状態、つまり治外法権状態が『法的に認められている』ことがわかった。

日米安保条約日米地位協定は守らなければならないと言っても、国民の人権が侵害されていいはずはない。そうした場合は憲法が歯止めをかけることになっている。条約は一般の法律よりも強いが、憲法よりも弱い。だから、もし住民の暮らしや健康に重大な障害があれば、きちんと憲法が機能してそうした飛行をやめさせることができる。これが当然、本来の法治国家の姿である。ところが、1959年に在日米軍の存在が憲法違反かどうかをめぐって争われた砂川裁判で、田中耕太郎という最高裁長官が、『日米安保条約のような高度な政治的問題について最高裁憲法判断をしない』というとんでもない最高裁判決を出してしまった。つまり安保条約とそれに関する取り決めが、憲法を含む日本の国内法全体に優越する構造が、このとき法的に確定した。だから在日米軍というのは、日本国内で何をやってもいい。住宅地でも低空飛行や、事故現場の一方的な封鎖など、さまざまな米軍の違法行為は、少しも違法行為ではない。日本の法体系のもとでは完全に合法であるということになった。そして、その後の米軍基地をめぐる騒音訴訟なども、全てこの判決を応用する形で、米軍機の飛行差し止めはできないという判決が出ることになった。

このことについては、さらにひどい話がある。それはこの砂川裁判の全プロセスが、検察や日本政府の方針、最高裁の判決まで含めて、最初から最後まで、基地をどうしても日本に置き続けたいアメリカ政府のシナリオのもとに、その指示と誘導によって進行したということである。この驚愕の事実は、2008年に機密解除されたアメリカの公文書の発見によって初めて明らかになった。判決を出した日本の最高裁長官も、市民側とやりあった日本の最高検察庁アメリ国務省からの指示及び誘導を受けていたことが明確になっている。

日本はアメリカの植民地、アメリカの属国という話を聞くことがあるが、法的にもまさしく植民地なんだということが理解できた。日本はこのままアメリカの植民地であり続けたいと思う人もいるかもしれないが、私はそうは思わない。現在の政治家の多くはこの問題から目を逸らしているように思う。どうか政治を志す方はこの問題の解決に全力で取り組んでもらいたいと思う。そのような政治家を育てて行かなければと切実に思った。