ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「運命の船『宗谷』発進」を見た その2

1937年(昭和12年)川南工業香焼島造船所(長崎県)で建造中の「宗谷」

「運命の船『宗谷』発進」を見て、宗谷についていろんなことを知った。
 そもそも宗谷は、1936年(昭和11年)9月18日、川南工業株式会社がソビエト連邦より、砕氷型貨物船の発注を受け、川南工業株式会社香焼島造船所(長崎県)にて起工し、1938年(昭和13年)2月16日、ソ連船ボロチャエベツ (Волочаевец) として進水した船である。しかし、第二次世界大戦直前の情勢に鑑み、ソ連への引渡はなされず、商船「地領丸」として竣工した。「宗谷」は南極観測船「宗谷」として誕生したのではなく、商船「地領丸」として誕生した船である。

 竣工後は、民間貨物船として日中間の輸送などに使われていたが、本船は、砕氷耐氷能力を持ち、当時としては珍しい最新鋭のイギリス製音響測深儀が装備されていたことから、1939年(昭和14年)11月、海軍省に当時の費用227万5千円で売却された。そして、1940年(昭和15年)2月20日「宗谷」と命名され特務艦に編入された。

 帝国海軍における宗谷の任務は測量、砕氷、輸送など多岐にわたった。以後、1940年から1945年(昭和20年)まで「宗谷」は帝国海軍特務艦として幾度も戦地に赴き、攻撃を受け損傷も受けたが、敵潜水艦の魚雷攻撃を受けても不発であったりして、沈没することなく終戦を迎えた。

 終戦後は、復員船及び引揚船として台湾、サイゴン、大連、朝鮮、樺太など各地からの復員引揚任務に従事し、1948年(昭和23年)11月に引揚任務を終了するまでに運んだ引揚者の総数は19,000人以上に達した。引揚船として活躍している3年の間に、船内で妊婦が産気づき無事に女児を出産する事例が二件あった。いずれも、艦長が名付け親になり、宗子(モトコ)と命名されたと記録されている。
 
 引揚任務終了後、「宗谷」は海上保安庁所属となり、灯台補給船として活躍することとなった。1950年(昭和25年)4月から灯台補給船としての任務についた宗谷は、1955年(昭和30年)12月までの5年半、この任にあたった。灯台補給船時代の1953年(昭和28年)12月には、アメリカ統治下にあった奄美群島が日本に返還されることとなり、それに伴う約9億円の日本円と米軍統治時代の軍票を交換回収する通貨交換業務要員の輸送を担当した。宗谷は灯台守からは「燈台の白姫」、「海のサンタクロース」などと呼ばれ親しまれていた。 

 1955年(昭和30年)7月、南極観測隊派遣を決定を受けて、海上保安庁は、砕氷能力を持つ南極観測船が必要となり、いくつかの船を候補として挙げたが、改造予算の問題や耐氷構造、船運の強さ(魚雷を被弾するも不発弾等)船齢等の結果、最終的に「宗谷」が選定された。決定されるや、第1次南極観測隊派遣(1956年11月8日-1957年4月24日)に間に合わせるべく大改造工事が急ピッチで行われる予定であったが、本格的な砕氷船への改造は技術的に難しく入札は何度も不調に終わった。そのような中、浅野船渠と契約が成立し南極観測船への改造工事に直手した。しかし、宗谷は戦争中酷使されたため、まさに想像以上のオンボロ船であった。それでも南極観測船という未経験の極地の使用に耐えるだけの船体に作り変える必要があり、しかも短い工期で完成させるべく、造船所以外からも集まった造船マン達が意地と日本人としてのプライドを賭けて突貫工事で仕事を進めた。一方、独自に新技術を編み出していた各企業全454社も惜しげもなく資材、技術を提供し、10月17日、無事に南極観測船としての巡視船「宗谷」が竣工した。南極観測隊派遣は国民が熱望する一大国家事業であり、参加した造船マンや企業も国民の熱意を受けて、南極観測船「宗谷」の大規模改修工事を成し遂げた。

南極観測船「宗谷」は1956年(昭和31年)11月の第一次から1962年(昭和37年)4月第六次終了までの間、南極観測船としてさまざまな困難を乗り越え過酷な任務を遂行した。この間前後6回にわたる南極航海における総航程は約144,276海里、総日数1,031日となった。

 その後は巡視船として北洋の守り神として活躍して、竣工から40年以上が経過した1978年(昭和53年)10月2日解役式が行われ、現役を引退した。

宗谷は民間企業所有の商船としてスタートして、帝国海軍の特務艦として戦争中は輸送や測量にあたり、戦後は大蔵省に所属して特別輸送艦として復員業務に従事した。復員業務終了後は民間組織に移り引揚船として活躍し、引揚船業務終了後は海上保安庁に所属して灯台補給船として活躍した。そして1956年(昭和31年)から1962年(昭和37年)4月まで南極観測船としての役目を果たした。その後は海上保安庁の巡視船として復帰し函館を母港として北の海の守り神を務めた。そして現在は、東京港船の科学館に保存船として係留されている。

宗谷はこれまでの活躍から「奇跡の船」「不可能を可能にする船」「福音の使者」「海のサンタクロース」「燈台の白姫」「北洋の守り神」「帝国海軍最後の生き残り」などさまざまな愛称で呼ばれている。どの愛称もその時々の活躍を表している。

 宗谷は現役を引退して、東京港に係留されていると書いたが、現在も海上保安庁の特殊救難隊の特殊訓練所として使われていて、現在も船籍は残されているようだ。動かないけど、宗谷はまだ船でありその意味では現役である。「宗谷」のこれまでを振り返ると様々な活躍と共に多くの苦労やさらに沈没する危険も何度もあった。人間に例えると波瀾万丈の人生であったように思う。心からお疲れ様でしたと言いたい。現在84歳の同郷(長崎県出身)の先輩である「宗谷」に無性に会いたくなった。今度上京した折は品川の「宗谷」を訪ねてみようと思う。