ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「長崎学講座」を受講する

長崎史談会が開催する長崎学講座を受講した。この講座は本来3月に行われる予定だったがコロナ問題のため延期になっていたものである。私は定刻30分前に行って講座が行われる会議室を覗くとすでに約50人の人が席についていた。大会議室なので密にはなっていないが、いつものように盛況である。

 

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今日の長崎学講座は「出島の四季と行事」というテーマで行われた。

出島は、1634年江戸幕府鎖国政策の一環として長崎に築造された人工島で、幕府が長崎の有力商人に出資させて作らせたものである。形は扇形で面積は約1.5ヘクタール(東京ドームの3分の1)である。1636年から1639年までは対ポルトガル貿易、1641年から1859年までは(218年間)対オランダ貿易が行われた場所である。オランダへの借地料は年銀55貫(現在の日本円で約1億円)であった。今日の出島の一年はオランダ人が住んだ19世紀の出島を中心に説明が行われた

 

 

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出島の年中行事の説明を行うにあたって、理解しやすいようにオランダ船が入港する6月から始めて翌年の5月までの区切りで行われた。(陰暦)

 

 

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通常、毎年2隻のオランダ船が季節風を利用してバタヴィア(現在のジャカルタ)を出港し、台湾海峡男女群島野母崎などを経てやってきた。オランダ船の入港手続きとしては野母の遠見番が帆影を確認し注進、長崎港外の小瀬戸近くで「旗合わせ」を行い乗組員名簿、阿蘭陀風説書、積荷目録を提出させ、曳舟に誘導されて入津、祝砲を放ち、港内に錨を下す。

 

 

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荷物は全て厳格に「荷改め」を行い、各蔵に入れた。その後、値組み、入札などの取引の手続きを経て荷渡しが行われた。 オランダ船がもたらした貿易品は生糸、布、砂糖、香料、染料、皮革などで、輸出品は初期は銀、金であったがその後は銅(棹銅)が主体になった。他には陶磁器、漆器などの工芸品もあった。輸入品の陸揚げをした後は、オランダ船は陰暦9月20日までに出港する規定があり、その出航ギリギリまで輸出品の収集に追われた。

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オランダ船の出港の様子は湊下しと呼ばれ旧暦9月19日または20日までに出帆した。出帆の様子を見るために、港には長崎警備の役人たちはもとより、多くの市民や多くの見物客が集まり賑わった。

 

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オランダ船が出帆した後は商館長をはじめ14〜5人が出島に残り、来年6月のオランダ船来航に向けて出島の修理などの準備をしながら過ごしていた。出島滞在中の1番の楽しみはお祭りなどの祝宴であった。陰暦の11月の冬至の頃、冬至の祝いに見せかけて行ったクリスマス(キリスト降誕祭)や、1月1日の阿蘭陀正月、ジャガタラ占領記念日、ワーテルロー戦勝記念日など大きな祝日はご馳走を並べて祝った。これらの祝宴には奉行所役人、通詞、乙名など日本人を招いてもてなしたようである。そのときのメニューは以下のようなものであったと記録にある。

鶏だんごスープ、鯛の塩焼き、ほうれん草のバター炒め、みかんの砂糖煮、豚のモモ丸焼き、ソーセージ、鶏のひき肉と椎茸とこんにゃくに卵を溶いたスープ、伊勢海老のスープ、野菜のパイ、鴨の丸煮、鹿モモの丸焼き、クッキー、ワイン、コーヒーなど

ある時は、一度に百名近くの来客があり、その時はフルーツの蜜漬けとワインを供したことが記録に残されている。

 

 冬の最大の役目は江戸参府である。オランダ商館長一行が、3月1日に将軍に拝謁するため、1月中旬に長崎を発ち、将軍に拝謁し、献上品を差し上げるというもので往復90日ほどの旅程であった。当初は毎年参府を行なっていたが、1791からは4年に1度とされた。オランダ人が参府を休んだ年は、通詞と諸役人だけがオランダ人の献上品を持参して江戸へ上った。

 

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出島に滞在したシーボルトは出島商館付き医師として来日し、日本人に医学や科学を教えるかたわら,多くの資料を収集し持ち帰り、オランダに帰国後「nippon 」という著書を発行した。その内容は、日本の地理、歴史、自然、風俗、人種、動植物、その他百般に及び西欧での日本研究の基礎文献になったものである。

 

また、出島に滞在したオランダ人は日本人の絵師を用いてたくさんの絵画を書かせている。当時の出島のオランダ人が日本をどのように見ていたのか、日本人をどのように見ていたのか、オランダのハーグ国立中央文書館には多くの絵画や記録が残されている。出島を通して日本の過去を辿る旅は興味は尽きない。