ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム」を読む

焼け野原に遠望される倒壊した浦上天主堂長崎原爆資料館所蔵

広島に被爆遺構として原爆ドームがあると同じように、長崎でも壊滅的被害を受けた浦上天主堂の廃墟を被爆遺構として後世のために残そうという動きがあったが、最終的には残されなかったという話を、私は、30代頃に聞いたことがある。その話については、被爆遺構として残すことに当初は積極的であった当時の田川長崎市長が、何らかの理由によって心変わりをしたことで実現しなかったという話であった。どうして、田川市長は心変わりをしたのか?田川市長が心変わりをせざるを得ない何らかの圧力があったのか?圧力があったとすればそれはどのような圧力であったのか、その疑問は長いこと私の心の中で解けないまま、70才代になる今日まできてしまった。

 

 長いこと疑問を抱えてきたが、高瀬毅氏が「ナガサキ 消えたもう一つの原爆ドーム」という本を書かれていることを知り、早速入手して読んだ。

 この本は、高瀬氏が浦上天主堂の廃墟を被爆遺構に残す動きがあったにもかかわらず実現しなかったのは当時の田川市長が米国から何らかの圧力を受けたのではないかという疑念をもとに調査を行い、その結果をまとめたものである。長崎市役所の関係書類や長崎市議会における議事録、また米国国立公文書館の資料調査など長崎に関するあらゆる資料を吟味して調査を進めたが、明確な圧力の証拠を見つけることはできなかったが、懐柔されたのではないかと結論づけていた。

長崎原爆投下から浦上天主堂廃墟取り壊しまでの時系列は次のとおりである。
1945年(昭和20年)8月9日 長崎へ原爆が投下される。
1946年(昭和21年)12月  浦上天主堂廃墟跡に仮聖堂完成
1949年(昭和24年)             原爆資料保存委員会発足
1951年(昭和26年)             田川市長初当選
1954年(昭和29年)3月    第五福竜丸、ビキニ水爆実験で被爆
1954年(昭和29年)7月.       浦上天主堂再建委員会発足
1955年(昭和30年)             セントポールと長崎姉妹都市提携の話が持ち込まれる
1955年(昭和30年)5月   浦上天主堂山口司教再建資金調達のため渡米
1956年(昭和31年)             田川長崎市長 姉妹都市提携のため渡米
1958年(昭和33年)2月        長崎市議会、天主堂保存問題で質疑 取り壊し決定
1958年(昭和33年)3月   浦上天主堂廃墟の取り壊し始まる

 高瀬氏によると、田川市長は、長崎市長に初当選した1951年以来、浦上天主堂の廃墟保存に積極的であった。また、浦上天主堂所有者であるカトリック長崎司教区も田川市長と連絡を取り合いながら廃墟保存の方向で話が進んでいた。そんな中、1955年、米国から長崎市セントポール市との姉妹都市提携の話が持ち込まれた。その後、提携式典への招待状が送られてきて、1956年田川市長は渡米した。それと同時に浦上天主堂再建計画に奔走していた山口司教も再建資金募金活動のため渡米した。

米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度が変わっていた。原爆資料保存委員会は毎年、浦上天主堂廃墟保存の答申を市長に出していた。廃墟の保存に反対したことのなかった田川市長が保存に消極的な姿勢を見せ始めた。不信感を募らせた議員たちは保存の必要性を訴え、議会で市長の考えを質した

「廃墟は人の心を愉快にはしない。悲惨で、痛ましく、暗く、重苦しいものだ。目を背けたくなる人もいるだろう。だが、それと向き合っていると、いろいろなものが見えてくる。さまざまな声が聞こえてくるのだ。廃墟の風景の向こうに、人類の存在そのものを脅かす核時代の危うい世界が浮かび上がってくる。古くなったから、醜いものだから、と簡単に捨て去ることは、「過去」の「記憶」を消し去ることに等しい。形あるもの、その時、そこにあったものの持つ力を私たちはもっと深く認識しなければならない。そして破壊されたものを醜いものとする捉え方自体、真実から目をそらすことであり、歴史の抹殺、人類の自己否定に通じる行為である。浦上天主堂の廃墟を被爆遺構として、20世紀の十字架として、浦上の丘に残すべきである。二度と核兵器を使わせないという決意を世界的な意思にまで高めていくためのシンボルとして浦上天守堂の廃墟は残すべきである」と保存派は主張した。

 それに対して、田川市長は天主堂の廃墟そのものに価値を認めない。保存するための財源を確保できない。また財源の問題で換え地を確保できないなどと述べ議論を打ち切った。そして浦上天主堂廃墟の取り壊しが決定した。

 渡米中どのように懐柔されたのか今も判然としないが、原爆によって破壊された浦上天主堂の廃墟の残骸が長く爆心地近くの丘に残されることは、いつまでも反核反米感情を刺激する建造物が残ることとなり、さらにキリスト教徒の上に同じキリスト教徒が原爆を落とした罪の象徴として記憶されることになる。米国にとって、それは忌まわしいことだと考えただろうと思った。

 長崎の原爆ドームは解体され原爆の傷跡は完全に消し去られた。広島原爆ドームは紆余曲折を経ながらも被爆遺構として保存された。長崎と広島のこの差は何だろうと思いながら巻末に掲載された星野博美氏の書評を読んで納得した。同時に長崎人ながら、主体性のない長崎の町の空虚さも感じられて心寒くなった。
「多くの人が長崎を『キリシタンの町』と認識しているだろう。しかし、長崎は決して 『キリシタンの町』ではない。キリシタンがたくさんいた時期は確かに存在したが、言うなれば、キリシタンを最も激しく弾圧した町でもある。長崎の町を1日歩けば、その残り香を感じることができる。長崎の象徴だったイエズス会の『岬の教会』があった場所に元長崎県庁が建ち、『山のサンタマリア教会』跡に長崎奉行所、ド ミ ンコ会の『サント・ドミンゴ教会』跡には 長崎代官屋敷、その他の多くの教会跡には寺が建てられた。為政者にとって不都合な場所は壊され、記憶を上書きするための新たな象徴が建てられるということが、長崎のそこかしこで、400年以上続いてきたのだ。私には長崎の歩んできた歴史が、浦上天主堂の廃墟が撤去された経緯とダブって見える。他の町にはない、長崎の得意な断層。アメリカはその弱みをうまく利用しただけ、と言ってはうがち過ぎだろうか 」