ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪ー女神から戸町へー

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青点から赤点までの往路コース。距離2.95km、消費カロリー376kcal、最高高度31m、最低高度4m、上昇高度51m、天気晴れ、温度17度、湿度63%

今日は絶好のウオーキング日和である。寒くもなく暑くもなく、しかも秋晴れである。青空がどこまでも青く、見ているだけで気持ちが晴れる思いがする。冨安風生の句「秋晴れや宇治の大橋横たはり」に倣うと「秋晴れや女神大橋横たはり」と詠みたくなる。

 

 

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今日の歴史文化探訪のスタート地点は女神大橋が架かる女神である。ここは長崎港口にあたり長崎港に出入りする水路の一番狭い場所になる。江戸時代、海外との窓口であった長崎港の警備のため長崎港内外に23の台場群が築造された。ここ女神にも1653年(承応2年)に女神台場が造られた。長崎港は1571年に開港し、ポルトガルをはじめ各国との貿易が始まったが、1639年(寛永16年)キリスト教の侵入を断つため、ポルトガル船の来航を全面的に禁止した。そのことから許可された船舶以外の入港を阻止するために港の内外に台場を築いていった。

女神の由来については、3世紀初め頃、神功皇后三韓征伐に向かう途中、長崎に立ち寄られた。出航する際、船から眺めた美しい景色に「陰・陽の二つの神がいるようだ」と感動され、東側を「陰神(めかみ)」西側を「陽神(おがみ」と呼ばれ、後に「女神」「男神」となったとされている。対岸は男神である。

 

女神大橋長崎市内の交通渋滞の緩和と物流の効率化を図ることを目的に建設された日本で6番目に長い斜張橋である。供用開始はは2005年12月である。女神大橋は長崎が国際観光都市であり、世界最大級の客船が橋の下を通過できるよう考慮して海面からの高さ65メートルに造られている。愛称はビーナス・ウイングである。

 

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金鍔谷と洞窟

女神から戸町方面へ進んでいく途中、金鍔というバス停を通る。バス停の近くから山の方に狭い階段道が続く。階段を登っていくと山肌に洞窟がある。

ここは金鍔次兵衛(きんつば じひょうえ、1600年生ー1637年没)が潜伏した洞窟である。金鍔の名前は金鍔次兵衛に基づいて名付けられた地名である。彼は6歳のころから有馬のセミナリヨ(キリシタン時代の神学校)で神学を学んできたが、1614年徳川幕府の禁教令により、マカオに追放された。その後、マニラでイエズス会が設立した学校で学び司祭になった。1631年(寛永8年)に念願の帰国を果たし、同胞への宣教に励んだ。昼は身分を隠し、長崎奉行所の馬丁(下級役人)として勤め、夜になると変装して司祭として隠れている信者を励ました。奉行所に正体が知られるとすぐに姿をくらまし、長崎中の山奥に潜伏し逃走を続けた。1636年捕らえられ拷問を受け、棄教を迫られたが屈せず1637年(寛永14年)西坂の丘で殉教した。因みに、彼は「金の鍔の脇差」を持っていたところから金鍔次兵衛と呼ばれるようになった。

 

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戸町の鶴海地区を歩く。新しい近代的な建物が多く見られる中、古い建物もいくつかあった。古い建物は無人となっているものもあった。左の建物は床屋さんだったみたいで白い壁には「丸一調髪館」と書かれている。理容院と書いてないところが時代を感じる。

 

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戸町番所

江戸幕府は、1641年、筑前黒田藩と佐賀鍋島藩の2藩に、隔年交替で長崎港警備の勤務にあたることを命じた。それにより、港口の西泊と戸町に番所を設けた。両藩は、両番所に市卒500人ずつを交代で駐屯させた。この両番所1864年(元治元年)に廃止されるまでの200余年にわたって、わが国の国防の第一線として使命を果たした場所である。

 

 

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小菅修船場は、日本で初めて蒸気機関を動力とする曳揚げ装置を用いた洋式スリップドックである。小菅修船場は日本近代造船所発祥の地とも言える修船施設である。

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スリップドックというのは船架(船を載せる台)によって船を曳き揚げるドックのことである。蒸気機関を据え付けた曵揚げ小屋内の巨大な歯車を蒸気で回し、海岸から海に伸びたレールの上を船架が移動して1,100トンまでの船を陸上に揚げることができた。
小菅修船場が完成したのは1869年(明治元年)でトーマス・グラバー薩摩藩の五代才助・小松帯刀が共同で企画したものであった。1870年(明治2年)明治政府が所有者のグラバーから買収し、官営長崎製鉄所の所有となった。1888年(明治20年)に三菱の所有となったが、船の大型化により昭和28年に閉鎖となった。

 

今日の歴史文化探訪では鎖国時代の国防とキリシタン弾圧そして明治初期の産業革命遺産などの歴史の一端に触れることができた。1571年、ポルトガル人が長崎は入江が深く天然の良港であることを発見して、長崎に港が開かれた。以来長崎でさまざまな歴史が創られてきた。遠藤周作さんは「長崎を歩くと、古い葡萄酒の味がする」と語っていたが、それは私が今日の歴史文化探訪で感じた歴史に触れる喜びを表した表現ではないかと思う。遠藤周作さんに倣うと今日は、古い葡萄酒を味わった1日であった。