夏らしい季節になると聖福寺を思い出す。古刹である聖福寺は木陰がよく似合う。一気に夏らしくなった1日、足はいつのまにか聖福寺に向かっている
聖福寺は(延宝5年)1677年に建立された。長崎の唐寺である興福寺、福済寺、崇福寺とともに長崎四福寺の一つである。
この山門は堺の豪商・京屋宗休が寄進したものである。堺の棟梁によって元禄16年(1703年)に竣工。堺で木材を切り組み、海路長崎に運んで建造したものである。八脚門形式で、屋根は切妻の段違いで本瓦葺き、中央部を一段高めた雄大な造りが特徴である。中央の大額は、黄檗宗開祖の隠元が揮毫したものである。
聖福寺の天王殿は中央に弥勒菩薩(布袋菩薩)と韋駄天を背中合わせに祀り、左右を通り抜けにした、仏殿と山門を兼用する黄檗宗様式の独特の仏殿である。堺の棟梁により、宝永2年(1705年)に竣工。
この鐘楼は、享保元年(1716年)に竣工。全体的に禅宗調を基調にした造形で、抑制された上品さが感じられる。又、梵鐘は享保2年(1717年)に改鋳されその音色が優れ音量豪壮であり遠く郊外まで響くので「鉄心の大鐘」と呼ばれ親しまれた。
大雄宝殿は釈迦を本尊として祀る仏殿である。長崎の棟梁によって、元禄10年(1697年)に竣工した。平面的にも棟高においても、崇福寺大雄宝殿(国宝)とほぼ同じ規格を持つ堂々たる仏殿である。屋根は武雄で製作された赤瓦が使用された。
じゃがたらお春の碑
寛永年間のキリシタン禁制により、異国の地に流されて、遂に帰る事叶わず、異国の地に散ったお春を哀れんで供養のため造られた石碑である。
裏面 歌人吉井勇作「長崎の鶯は鳴く今もなおじゃがたら文のお春あわれと」
聖福寺裏山からみた長崎港と境内
坂本龍馬はこの裏山から長崎の港を見たかもしれない。唐突な話ではなく、坂本龍馬はここ聖福寺で重要な仕事をした。
慶応3年(1867年)5月22日いろは丸事件の談判が、ここ聖福寺で行われた。4月23日、坂本龍馬の海援隊に所属する「いろは丸」は、瀬戸内海で紀州藩船「明光丸」と衝突・沈没した。その賠償交渉がここ聖福寺で行われ、龍馬は紀州藩に賠償金8万3千両を支払わせることで決着した。
ここ聖福寺は坂本龍馬が命をかけて交渉に臨んだ場所である。境内の木陰に立ち、目を閉じれば龍馬の声が聞こえそうな静寂がある。