ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

シーボルト記念館

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シーボルト胸像(1796〜1866)


「ながさき紫陽花まつり」でシーボルトの名前が出てきたので、シーボルト宅跡地でもあるシーボルト記念館へ久しぶりに立ち寄ってみた。

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シーボルト記念館(外観はオランダ・ライデン市のシーボルト旧宅をイメージ)

シーボルトは1796年2月17日にドイツのヴュルッツブルグという町で、医学者の家に生まれた。大学で医学をはじめ、動物学、植物学、民俗学など学び、卒業後は医者として働いていた。しかし、見知らぬ国の自然科学調査への研究意欲が捨てがたく、世界中で貿易を展開しているオランダの東インド会社に職を求め、長崎・出島のオランダ商館付医師に任命され、1823年日本に赴任した。

シーボルトの任務は医師として商館員の健康管理にあたることと合わせて、当時、日蘭貿易が落ち込んでいたことから抜本的対策を講じるための調査研究を命じられた。それは日本の動物学、植物学、民俗学などの自然科学に留まらず、地理、産業、風俗習慣など日本に関する全てにわたるものであった。

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鳴滝シーボルト宅古写真

シーボルトは当初、出島内で長崎に遊学した日本の医師たちに医学や植物学の講義をしていたが、シーボルトは優れた医者であったので長崎の町に出て病人を診察することが許された。

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鳴滝シーボルト宅史跡碑

さらに長崎に来て1年後(1824年)、長崎奉行より特別の許可をもらい鳴滝にあった民家を手に入れ、長崎郊外の鳴滝の地に鳴滝塾を開設した。ここで、シーボルトは日本の調査研究を進めると同時に、日本各地から集まってきた医者たちに医学などを教え、ここで学んだ人々は、やがて医者や学者となって活躍していった。

 

 

1829年12月30日、シーボルトは日本調査のため集めた品物の中に、日本地図や将軍家の家紋入りの着物など国外持出禁制品を所持していたこと(シーボルト事件)から、国外追放処分を受け日本を離れることとなった。

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鎖国時代の日本にあって、シーボルトが開いた鳴滝は、日本で西洋医学や自然科学などを学ぶ唯一ヨーロッパの光が差し込む小さい谷間であった。そして、鳴滝塾でヨーロッパの光を受けた日本の学者はサイエンスを学ぶ喜びを知り、確実に次代に繋いでいった。それは黒船ペリーが来航する30年前のことであった。