ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

歴史文化探訪 第3回「湊公園から孔子廟」を歩く

青点をスタートして唐人屋敷に行き、Uタンして東山手を通り赤点までのコース。距離3.1km、最低高度6m、最高高度29m、総上昇高度57m、天気晴れ、温度21度、湿度55%

 

今日のコースを江戸時代の絵師、円山応挙(1733〜1795)が描いた「長崎港之図(1793年作)」に当てはめると新地荷蔵からスタートして唐人屋敷に行き、また新地荷蔵に戻りそこから東山手まで行くコースとなる。円山応挙の絵に描かれているように当時は出島も新地荷蔵も周りは全て海であった。それが長い年月の中で埋め立てられて新地荷蔵も出島も今は陸地になってしまっている。今日のコースは地形の変化を確認する歴史探訪となった。同時に、1858年の日米修好通商条約締結による開国によって役割を終える地域と新しく築かれていく地域を訪ねる歴史の転換を感じる歴史散歩になった。

 

左:湊公園広場   右:新地中華街の南門(新地荷倉跡地)

今日の歴史文化探訪のスタート地点は「湊公園」である。「湊公園」は「新地荷蔵」のすぐ隣にある公園である。鎖国時代、長崎には南蛮船だけでなく、中国からの唐船も数多く来航していた。ここ新地荷蔵は唐船が運んできた貨物を収納するために、元禄15年(1702)に造成された築島に12棟60戸の土蔵が建てられ貨物を管理収納していた場所である。現在その跡地は長崎新地中華街として中華料理の中心地となり、多くの観光客で賑わう観光名所となっている。

左:唐人屋敷跡地入口の大門    右:江戸時代に描かれた唐船

湊公園スタートして唐人屋敷跡地へ行く。唐人屋敷跡地の入り口に大きな立派な門が建てられている。当時も大きな門があったようだ。

室町時代中期以降、中国貿易は九州各地で行われていたが、1635(寛永12年)幕府は長崎以外での中国貿易を禁止した。そこで、九州各地から中国人が長崎に移住して、長崎は中国貿易の基地としても大きく発展することとなった。1670年代、長崎の人口約6万人の内約1万人は中国人であったといわれている。その後、鎖国政策をとっていた江戸幕府は、密貿易やキリスト教浸透を防止する目的で、貿易のため来航する中国人(唐人)たちの居留地として、1689(元禄2年)に唐人屋敷を建設した。唐人屋敷は高い練塀と竹矢来で二重に囲まれ、さらに番所が置かれ厳重な監視が行われていた。敷地内には、二階建て瓦葺き長屋20棟が立ち並びここに中国の船員や商人を収容した。唐人屋敷を廃止して、元禄以前のように中国人たちを市内に宿泊させることは、中国人や長崎の人たちの待望するところであったが、しかし、その要求は実現せず、唐人屋敷での収容は1859年の安政の開国まで約170年間続いた。唐人屋敷は出島と共に海外交流の窓口として大きな役割を果たした場所である。

左:土神堂  中:天后堂  右:観音堂

唐人屋敷では、季節ごとの中国の催事や祭りごとが行われて唐人踊りや音曲が長崎の人にも披露されていたようだ。唐人屋敷の唐人が行なっていた龍踊りや精霊流しなどは長崎の人に受け継がれて長崎の風物詩として今も伝わっている。広大な唐人屋敷跡地は今は市街地になっており、その中に残された長崎市指定史跡の土神堂、天后堂、観音堂を訪ねながら跡地を歩く。これらのお堂は、唐人の方が航海の安全や商売繁盛を祈った場所である。

 

 

左:オランダ坂     右:東山手甲13番館

唐人屋敷を後にして次は東山手に向かう。1858(安政5年)の日米修好通商条約によって横浜、長崎、新潟、兵庫、函館の5港が開港されることが決定し、長崎においても外国人居留地の造成が必要となり、最初に開発が許可された地域が東山手である。居留地は1899(明治32年)条約改正により外国人の内地雑居が認めれられ旅行制限が解除されるまで続いた。
オランダ坂居留地に住む外国の人たちが教会に通っていた坂道である。長崎の人々は西洋の人を出島に住むオランダ人の影響から「オランダさん」と読んでいたことから、西洋の人が通る坂という意味でオランダ坂と呼んだ。東山手甲13番館は1897(明治30年)頃に建築された建物で保存状態がよく国登録有形文化財に指定されている


東山手12番館

1868年(明治元年)ごろに建設され、東山手居留地に残る洋館では最古の建物で国指定重要文化財に指定されている。ロシア領事館、アメリカ領事館メソジスト派の宣教師住宅として使用された。現在は私学歴史資料館として公開されている。

東山手は、日本の女学校の草分けと言われる活水学院聖母マリアの象徴である「海の星」の名前を持つ海星など長崎における私学(ミッションスアクール)発祥の地である。

 

東山手洋館群

東山手洋館群は1888年(明治20年)頃に外国時のための賃貸住宅として建てられた建物である。賃貸住宅として7棟の住宅が集中して残るところは他になく、東山手居留地を特徴づける貴重な建物である。現在は、東山手地区町並み保存センター、古写真館、埋蔵資料館などとして活用されている。

 

東山手洋館群の横を通る坂道の道路標識を見ると、自転車通行禁止になっている。坂があまりにも急すぎるので自転車に乗って下ってはいけないという意味のようだ。この下り坂では自転車を押して通らなければならない。下りのみ禁止と書いてあるから、上りは自転車に乗って上っても良いという意味になるが、良いと言われても、自転車で上るのはとても無理だろうと思う。

 

今日の歴史文化探訪は新地荷蔵跡横にある湊公園から唐人屋敷を通り、東山手を通り、孔子廟まで歩いてきた。1635年の鎖国政策の強化、1858年の安政の開国とそれに伴う居留地の開発、そして1899年の居留地制度廃止など歴史の移り変わりを確認する歴史散歩であった。遠藤周作氏が「長崎の町は古い葡萄酒の味がする。どこに佇んでも歴史の香りがする。」ということを書いていたが、まさに今日の歴史文化探訪は古い葡萄酒の味を楽しむ散策となった。