用事があって、町へ出かけた。せっかく町に来たのだからどこか寄り道して行こうと考え、唐人屋敷を散歩することにした。唐人屋敷を歩くのは久しぶりだ。
唐人屋敷に行く途中の小さな公園に、等身大の人物像が長イスに座っていた。一人は男性で頭に鳩を乗せている。一人は花束を持った女性である。こういう遊びを街中に見かけるのは楽しい。
街中を見学しながら、唐人屋敷に急ぐ。
長崎では、江戸時代から中国の人を唐人(とうじん)と呼んでいたようだ。だから、「唐人屋敷」とは今風に言うと「中国人屋敷」と言うことになる。唐人屋敷の入口に立つ大門に到着。
鎖国時代、西洋人は出島に住み、市中に住むことは許されなかったが、唐人(中国人)は、最初は市中に自由に住み、日本人と一緒に生活していた。多いときは6人に1人は唐人というくらい、長崎には多くの唐人が住んでいた。(人口6万のうち1万人唐人と言われている) しかし、密貿易などの取締の関係で、唐人が住む地域を限定し、その一帯に唐人屋敷を作り住まわせることになった。
当時の唐人屋敷面影を残している建物など数少なくなっているが、今日は「土神堂」「天后堂」「観音堂」「福建会館」を訪ねることにした。
「土神堂」は、1691年に建てられたお堂で、唐人屋敷の中で一番最初に建てられたお堂である。祀られている土神様は福徳正神ともいわれ、土地や家を守り、豊作、繁栄、治病の神さまとして、中国古来から民間で広く信仰されてきた神様である。
「天后堂」は、海の女神「媽祖(まそ)様」をまつるため、1736年に建立されたお堂である。当時、唐人たちは唐船で季節風にのり、海を渡ってやってきた。その航海の安全を祈るため、媽祖像を船内に祀り長崎に着くと、唐人屋敷内の天后堂に安置した。
それが媽祖行列である。
観音堂は、1737年に福建省出身の唐船主によって建立されたといわれている。その後幾度かの改修を経て、現在の建物は1917年に改築されたものである。入口のアーチ型の石門は唐人屋敷時代のものといわれている。本堂には向かって右に観世音菩薩、向かって左に関帝が祀られている。
福建会館は、1868年に福建省南部出身の貿易商たちの会所として建設されたものである。このお堂には2体の媽祖さまが祀られている。
唐人屋敷を散歩中に資料館を発見。そこで貴重な資料を拝見しながらお話をお聞きした。