唐人屋敷を散歩してたら、唐人屋敷「蔵の資料館」を発見。中に入ると、当時の様子が絵画にして残されている。荷揚げの様子や生活の様子が正確に描かれており、当時の人々の声や息遣いまでが感じられるような資料であった。
この時代、わが国が唐船で輸入したものは18世紀初めまでは生糸が主であったが、生糸の国内生産が増大した後は生糸に代わって、バタビア産の砂糖が主力となった。また、輸出したものは17世紀の初期までは銀であった。わが国は世界でも有数の良質な銀の産出国であった。その後は銀に代わって、輸出の主力になったのは銅と俵物であった。俵物は煎海鼠(いりこ)や干し鮑(ほしあわび)、鱶鰭(ふかひれ)などを俵に詰めて輸出された。
積荷は小舟に積み替えられて、新地蔵に荷揚された。
元禄11年(1698)長崎市中で起きた火災は、市中に置かれていた唐船20隻分の貨物を焼失させた。そこで、海を埋め立て新しく「新地蔵」が造られ、以後唐船の貨物を収納するようになった。
中国貿易はその量においてもオランダ貿易の 数倍になり、また扱う品目も生糸、反物、薬種、香木、砂糖、鉱物、染料、皮革、唐紙など多種多様であった。貿易を円滑に行うために、現場での通訳や外交文書の翻訳などを行う「唐通事」と呼ばれる人たちが活躍した。長崎では中国を唐(とう)、中国人を唐人(とうじん)と呼んでいた。
龍踊りは唐人屋敷で上元(正月15日)に行われていた祈福の祭りで演じられていた。この龍踊り(じゃおどり)を唐人屋敷に隣接する籠町の町人が習い、現在、長崎くんちの奉納踊りとして伝えられている。
中国の「彩舟流し(さいしゅうながし)」は、お供え物で飾った唐船の模型を燃やし、亡くなった人を供養した行事である。長崎のお盆の15日に行われる精霊流しはこの「彩舟流し」が原型と言われている。
唐人屋敷の土神の誕生祭で行われていた唐人踊は、月琴や笛、銅羅、喇叭、などの楽器の演奏に合わせて演技されていた。中国から伝わった音楽「明清楽」は、今も長崎の伝統として受け継がれている。
唐船の来航数は、元禄元年(1688)の117隻が最も多く、通常は70隻程度であった。またオランダ船の来航数は万治元年(1658)の43隻が最も多く、以降は通常3〜7隻であった。オランダ船や唐船が来航する夏から秋の季節、長崎港ではこれらの帆船を見物する人々が舟を出し、その賑わいを肴に酒を酌み交わしたと言われている。異国の言葉が飛び交う港の賑わいの風景は、この季節の長崎の風物詩であった。
唐人屋敷を久しぶりに訪れて、何か懐かしいものに触れたような感じがした。それは長い年月の中で培われた中国からの影響が染みついているから、かもしれない。中国からの影響は長崎人の日常生活の中に、識別しがたいほど血肉化した関係で染み付いているように思える。