ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

名所歩き その2

 

9月1日のブログは「9・1五島名所歩き」と称して下見の旅に出た。玉之浦一帯を隅々まで下見しながら歩き回る予定であったが寄り道が多くなかなか先に進まず、9月1日のブログは大宝寺秘仏についての話で終わってしまった。今回はその下見の続きを記すこととした。

 

 

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大宝寺の見学を終えたあとは白鳥神社に行く。白鳥神社は舟で参拝するのが一番便利である。昔は舟でしか参拝できなかったと地元の人は言っていた。今では道路ができているが、車が一台しか通れない細い山道道路を山の中腹から海岸まで3キロほど下らなければならない。その間、対向車が来ないことを祈りながら進み、やっと到着した。陸路では不便な神社であるが、境内は綺麗に清掃されていて気持ちがいい。この神社が今から1300年前に創建されて、遣唐使として唐に渡った最澄もこの神社を訪れ参拝したという。そのような故事を思いながら白鳥神社の境内に立ち、鳥居を隔てて海の彼方を見ると悠久の時の流れを感じる。

 

白鳥神社は文武二年(698年)に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)を祭神として創祀された。ある時一羽の白鳥が神社に飛来し、その夜白鳥が宮守の枕元に現れ、「我こそ神の化身なり」とのお告げを告げたという。後日、村人に一連の話をするといたく感動し、それ以来当地を「白鳥宮」と尊称したといわれる。なお、海に望む現在の大鳥居は元禄四年(1691年)に五島藩5代目藩主五島盛暢が寄進したものである。古くは延暦23年(804年)に遣唐使と共に旅立つ最澄が参拝したと伝わり、明治21年(1889年)には伊藤博文も玉之浦湾巡視の際に参拝している」と案内板にあった。

 

 

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井持浦ルルド聖母マリア

井持浦教会は1897年(明治30年)に創建された五島で最初のレンガ建築による教会堂である。また井持浦教会敷地内にあるルルドは当時の五島教区のアルベルト・ペルー神父により提唱され1897年に建設されたものである。

 

ルルドとは、南フランスのピレネー山脈にある町の名前で、1858年、薪拾いに出かけた少女・ベルナデッドが近くの洞窟で聖母マリアと出会い聖泉を示されたという故事に由来するカトリックの聖地で、その聖泉の水を飲んだり浴びたりした者は、病が癒されるなどの奇跡が現れるとされている。

井持浦のルルドは、五島各地から選ばれた岩石により築造され、内部には聖母マリアの像が安置されている。傍らに掘られた井戸には、聖地ルルドの聖泉の水が混入され祝別されており、以降この地は第2のルルド霊泉地として全国各地から熱心な信者が訪れている。」と案内に書かれてあった。

 

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「玉之浦アコウ」は玉之浦大山神社の参道にかかる大木である。このアコウの主根は目通り約10.3mでその樹上3.3mのところから周り6mの支柱根が地中におりている。そしてその支柱根と主幹の股下を参道が通っている。この樹形の不思議さに驚嘆する。通りかかった30代の地元の方みたいな女性に「このアコウの木の樹齢はどのくらいでしょう?」と尋ねる。「よくわかりませんが、私より年上です」と答えられた。「玉之浦のアコウ」は少なくとも樹齢300歳以上だから間違いなく女性よりアコウが年上だと私も思った。でも、女性の答え方が気になって、あとで考えた。もしかしたら、あの女性は人間ではなく、人間の形をした森の精だったかもしれない。だから、自分と比較したのではないだろうか?勝手な空想をしながら次の目的地へ向かう。

 

 

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島山島キュウシュウジカ(案内板より転載)

玉之浦大橋を渡るとそこは島山島の向小浦園地。島山島は人口35人に野生のキュウシュウジカが約500頭いる島である。鹿を見るために、鹿がよく来る向小浦園地に行く。暫く待つが鹿は現れなかった。肩を落として帰っていると島民の方が「鹿は朝方と夕方にしかこの園地には来ない。朝夕はほぼ会えるので、その時間に来たらいい」と教えてもらう。せっかく訪ねたのに鹿さんにシカトされてしまったようだ。

 

 

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玉之浦元倉の昭和の雰囲気の町並み

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古民家松ノ下

玉之浦には昭和の雰囲気を残す路地があるというので尋ねる。なるほど、昭和の雰囲気が感じられる。昔は見事に昭和の町並みがずっと続いていたらしい。今は途中空き地も見られるようになったのは、昭和人間の私にとっては淋しい。

昭和の町並みを歩いていたらひときわ目を惹く昭和の建物を発見。「古民家 松ノ下」というカフェであった。早速入っていくと、ここは昭和5年に建てられた古民家で柱、硝子戸、縁、庭、テレビ、電話などなどどれも懐かしく、昭和の雰囲気を味わえる憩いの場所であった。お腹が空いていたのでうどん定食を注文していただいた。五島うどんとおいなりさんのセットでなかなか美味しい。この出汁はアゴ出汁に違いない。玉之浦で素敵な場所を見つけて嬉しくなる。あとでホームページを見ると土日のみの営業らしい。ラッキーであった。

 

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元号が平成から令和になった時、消えていく平成というイメージで五島の小学校が全国ニュースで報道された。その小学校が玉之浦地区にあるこの平成小学校である。平成小学校は平成二年に開校し、平成三十一年児童数の減少のため閉校となった。淋しい限りである。

 

ところで、令和がスタートとしたが号外まで飛び出した異例な幕開けであった。この元号について、昔、自民党の総裁を務めた石橋湛山は1946年、元号廃止論を主張した。その理由は元号は世界との共時性がない。また元号は一連の歴史の継続性を断絶させる。その二つの理由から廃止すべきと主張した。私も石橋湛山に賛成である。このグローバルな時代に元号は不要と思う。昔の自民党にはこのような進歩的な考えを持った優秀な人材が多く見られたが、今の自民党にはそのような人材は見られず、隔世の感を禁じ得ない。今の自民党には何一つ魅力を感じないようになった。

 

 

玉之浦地区の名所を寄り道しながら歩いた。今回訪れなかったが玉之浦には、その他荒川温泉があり、大瀬崎灯台があり、福江島の最高峰である七ツ岳の地でもある。福江島の中心から離れているが決して外せない見所の多い町である。下見の旅は続く。