魚目中学校校歌
作詞 新村 出
作曲 信時 潔
1.東天しらみ 海原に
新生の光 射しいでて
真理に生くる 身を照らす
ああ わが若き 生命かな
2.同じ郷土の 学び舎に
進取に勇み 誠もて
親愛の裡 身を磨く
ああ わが若き 情かな
3.一つ理想に 励み合い
日本の行くて 見つめつつ
世界の民と 眉あげて
進め 魚目中学校
妻は新上五島町出身である。先日、魚目中学校の同窓会が博多で行なわれて妻も出席した。同窓会から帰宅して、同窓会の土産話として誇らしげに話してくれたのが母校の校歌のことである。
母校である魚目中学校の校歌の作詞者は広辞苑の編集者としてつとに有名な新村出(しんむらいずる)博士ということであった。私は驚いた。どうして日本最西端の離島の中学校の校歌の作詞者が新村出博士なのかにわかに信じられなかった。ネットで魚目中学校のホームページをのぞいて校歌の作詞者を確認すると確かに新村出と書かれてあった。
なぜ新村出博士が魚目中学校の作詞をなさったのか理由を尋ねると以下の通りであった。
魚目中学校は昭和22年に開校した。昭和23年魚目中学校は校歌の作詞を郷土の偉人、潁原退蔵先生に依頼した。潁原退蔵先生は長崎県初の文学博士で、新上五島町が生んだ、日本的な国文学者である。ところが潁原先生が54歳で急逝されたため、校歌の作詞が中断してしまったことから、潁原先生の奥様が京都大学で潁原退蔵先生の恩師に当たる新村出博士にお願いして新村博士が潁原先生に代わって作詞されたということであった。新村博士は上五島には一度も行ったことはなかったが上五島の話を奥様からお聞きしてそのイメージから作詞をされたということであった。
私はこの校歌をみて、1番と2番は上五島の風景と風土を頭に描いて作詞されたのだと感じた。そして、3番は日本の未来を担う若人に対する思いと期待を込められたものだと強い印象を持った
一つ理想に 励み合い
日本の行くて 見つめつつ
世界の民と 眉あげて
進め 魚目中学校
この3番の詩は昭和23年という敗戦間近に作られたとはとても思えないグローバルな思想が含まれていて作詞者である新村博士の若人に対する熱い思いを強く感じる。
郷土の偉人、潁原退蔵博士は明治27年(1894年)2月1日、旧北魚目村小串に小学校教員であった潁原謙三と愛、夫妻の二男として生まれた。兄が早く亡くなったため、事実上は長男として生涯父母に尽くした。
博士は、十歳のとき上郷尋常小学校卒業。十五歳の時、長崎県師範学校入学、十九歳の春、東京高師に進学している。教壇には京大大学院在学中から立ち、京都女専、同志社大、府立医科大等をへて、昭和三年、京大文学部講師となった。その年まで「蕪村のおもかげ」「蕪村の生涯」「蕪村の連句」等すでに蕪村研究家として大成するための基礎的な研究を深めている。京大講師になってからの研究実績には、めざましいものがある。博士は蕪村研究だけでなく、俳諧研究の金字塔と言われる「芭蕉講座」「俳諧精神の研究」「芭蕉俳句新講」等を著わし芭蕉研究でもつとに有名である。また江戸文学、江戸文芸全体の研究でも開拓者的役割を果たしている。潁原博士は、その深い学識と円満な人柄で一大学を超え多くの門下生を育て、その門から一流の国文学者を輩出している。京都市左京区の禅寺金福寺(こんぷくじ)に潁原博士の筆塚が完成した折、恩師でもある新村出博士は、次のような歌を献じて潁原氏の学問的業績を称えた。
「子規起ちて蕪村顕わし研究は潁原博士に尽きし感あり」
潁原博士は、潁原山容ともいうべき学問の金字塔を打ち立てた郷土の先達である。潁原博士が、どれほどすばらしい国文学者であったかは、没後もその論文は再版され続け、没後三十年を経て、著作集全二十一巻が刊行された一事をもってもうなづくことができる。
魚目中学校の校歌は潁原退蔵博士と新村出博士という日本が誇るお二人の国文学者の尽力によって誕生したことを考えると、魚目中学校はこの上ない幸せであると思う。
お二人はすでにお亡くなりになってしまったが、校歌を歌う若人は作詞者の思いをしっかりと受け止めて未来への道を歩んでもらいたいと思う。