ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

つかの間の街中散歩

新型コロナウイルスの感染拡大防止のため、外出自粛が要請されている。私は長崎市内の中心部から離れた郡部に住んでいる。外出自粛を受けて、冬眠中の熊さんみたいにじっと自宅に籠っていたが、どうしても外出しなければいけない用事ができて、やむなく市内中心部に出かけることにした。車で市内まで行き、駐車場から目的地まで徒歩で移動しながら、久しぶりに街中を歩いた。人混みを避けながらも目に留まるものをカメラに収めながら、つかの間の街中散歩を味わった。

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駐車場から目的地へ歩いていたら、ベンチを置いただけの小さな小さな公園がある。そこのベンチに座っているサクソフォーンを持った男の人の頭の上では鳩が羽を休めている。街中に出るとこのような遊びを見つけるのが楽しい。

 

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長崎市内は路面電車が通っている。次から次にいろんな色彩の電車が通る。路面電車長崎市民の足である。路面電車はクラッシックなものから最新式のものまでいろんな車両が活躍している。今日は乗車しないが幼稚園児の孫が来崎したらいつも路面電車に乗って楽しんでいる。

 

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長崎市の観光スポットの一つである眼鏡橋に来た。眼鏡橋は中国からおいでになった興福寺二代目住職・黙子如定禅師が1634年(寛永11年)に架設した日本で最古のアーチ型石橋である。眼鏡橋は、長崎と中国の深い交流の歴史を示す遺跡でもある。400年近く壊れないできたことから恋人同士渡ると愛が壊れないラブスポットとしても近年人気が高い。

 

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裏通りを歩いていたら、ビルの中から突然、路面電車が飛び出して来るような建物があった。ここは元「きっちんせいじ」というレストランで観光客にも地元の人にも人気のお店であった。残念ながら、張り紙には長い間のご愛顧感謝いたします、という閉店のご挨拶があった。

 

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通りを歩いていたら、建物の壁に長崎の坂道が描かれた絵画が飾られている。長崎は坂の町である。長崎は港を中心に円形競技場のスタンドみたいな形状だから至る所に坂がある。その中でも「傾斜が急な坂」とか「映画によくでる坂」とか「歴史深い坂」とか「某芸能人が子供の頃遊んだ坂」とかいろんな坂があって面白い。コロナが収束したら坂巡りをまたやろうと思う。

 

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繁華街への入口の橋は銕橋(くろがねばし)という。通称、鉄橋(てつばし)と呼ばれている。ここの初代の橋は日本最古の鉄橋である。この橋の上にイタリアを代表する彫刻家エミリオ・グレコ氏の作品「水浴の女」が設置されている。

 

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水浴の女の反対側の道路には「長崎県の花 椿」と「長崎市の花 紫陽花」がデザインされた焼き物が埋め込まれている。椿の花が終わったら今度は紫陽花の季節が来る。

 

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鉄橋のたもとに立つ石柱には「土佐商会跡」と大きく刻まれている。土佐商会は幕末時代の土佐藩の貿易関係の役所である。その長崎出張所はこの橋のたもとに置かれていた。最初は後藤象二郎が、後には岩崎彌太郎が辣腕を振るった。長崎出張所の目的は大砲や弾薬、さらには艦船を調達することであった。坂本龍馬率いる海援隊の運用資金も調達した。幕末、この地で多くの先人が活躍したことを思うと感慨深いものがある。

 

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築町商店街に入ると「フロイス通り」という名前の通りに出る。築町とフロイスさんはどういう関係があるのだろうかと疑問に思いながら歩くと奇妙なオブジェを見つける。

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ガロというポルトガルの幸運を呼ぶ鶏である。裏を見ると、この築町にはその昔、多くのポルトガル人が住んでいたらしい。では先ほどの通り名のフロイスさんもポルトガル人に違いないと思って案内板を読むとその通りであった。ルイス・フロイスさんは1532年生まれのポルトガルの宣教師で、1563年に日本に来て布教を開始した。戦国時代の日本で宣教し、織田信長豊臣秀吉らと会見した。フロイスは日本におけるキリスト教布教の栄光と悲劇を直接目撃し「日本史」という貴重な記録をのこした。そして、1597年長崎にて没した、とあった。

 

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築町の隣町である江戸町商店街を通る。江戸町は出島に隣接する町である。商店街の入り口に掲げてある町名アーチの真ん中に通称「タコのマクラ」という江戸町の紋章が描かれている。この「タコのマクラ」は江戸町のオランダ語表記「Jedomati」から取ったJとDとMの字でデザインされており、出島に住むオランダ商館長が友好の証として考案し江戸町に贈った紋章と言われているものである。

 

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江戸町の一角に設けられた案内板を見る。大きな絵が二枚書かれている。1枚目は岬の教会というタイトルになっている。

長崎が開港された翌年の1571年、イエズス会宣教師フィゲイレド(ポルトガル)は、この地の岬の突端に「岬の教会(サン・パウロ教会)」を建てた。その後、16世紀後期から17世紀初頭にかけて、長崎には多くの教会堂が建てられ、南蛮貿易の中心地として、その繁栄ぶりはさながら「小ローマ」のようだとバチカンに伝えられた。しかし、1614年、徳川幕府の禁教令によってほとんどの教会が破壊され、キリシタンの町並みは姿を消した。

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2枚目の絵には西役所全景というタイトルがある。1633年に長崎奉行所西役所が造られ出島が完成してオランダ、中国を除く長い鎖国時代を迎えた。1855年には海軍伝習所が設けられ、この絵画はその頃の様子を表している。ここ江戸町は時代によってイエズス会本部、長崎奉行所西役所、海軍伝習所が置かれ、歴史の変遷が形作られた場所である。

 

つかの間の街中散歩をして長崎の歴史を味わった。遠藤周作さんが長崎を訪れた折の感想として、「長崎は古い葡萄の味がする街、どこへ佇んでも歴史がある。」と述べられた。慌ただしく、コロナウイルスを怯えながらの散歩ではなく、ゆっくりと古い葡萄の味を感じる歴史散歩をしたい。その日が来るのを楽しみに待ちたい。