8月13、14、15日、お盆の行事が行われた。
長崎のお盆は中国風である。長崎のお盆の著しい特色は、丘や山の中腹にある墓地が全て燈火のイルミネーションに飾られることと8月15日の夜の精霊流しの絢爛さである。
徳川幕府の天明時代後期(1790年頃)に書かれた橘南溪の西遊記に長崎のお盆の様子が書かれている。
「長崎の地の墓所は、皆四方の山の中腹にありて、盆中は墓所に灯燈をともすことなり。富むるものは墓ごとに十二十の灯燈をともせり。元来数千万の墓のあるに、又数双倍の灯燈なれば、その数知れず。夜に入れば、四方の山皆火となりて、その見事なること、浪速の天神祭りよりも勝りたり。」
夕刻5時頃、墓所に行き石塔の前に提灯を飾り、黄昏を待って灯篭を灯す。夜10時半頃灯篭の火を消して、人々山(墓所)より下りて家に帰るという記述が古文書に残されている。
昔は、墓所に緋毛氈を敷き、提灯に火を灯し夜遅くまで、重箱や酒を用意して三味線を弾き、拳などをして一族打ちよって祖先の霊を歓待した。さすがに今は、墓所で緋毛氈を敷き酒肴を振る舞う光景はもはや廃れてしまったが、墓所で提灯に火を灯し、花火をし、爆竹をならし祖先の霊を歓待する風習は今も続いている。
長崎の墓所でこのように提灯を灯し宴席が設けられるようになった風習は、昔、長崎に居住していた中国の人達が行なっていた清明節の墓参りでの宴席の風習からきたものと考えられている。また墓所で花火や爆竹をするのも、中国の人達が長崎に持ち込んだ風習である。
ところが、今年のお盆の墓所風景は様変わりで驚いた。誰も墓所に提灯を灯していない。毎年、この時期の墓所は爆竹の音と花火の光と提灯の灯りが明々と山の中腹を染めているはずなのに真っ暗である。毎年、お盆の夜の墓所は混み合うほど人々が集まっていたのに今年は閑散としているし、提灯の灯りがない。新型コロナウイルス感染防止のため三密を避けての対応であろう。寂しい限りである。
「彩舟流しの図」川原慶賀筆
15日のお盆最終日は精霊流しが行われる。
長崎の精霊船つくりは1700年頃に始められたという。それまでも盆まつりはあったが、精霊船で祖先の霊を、盆の15日の夜十万億土にお送りするという「精霊流し」の風習はなかった。
当時、長崎に在留していた中国の人達が亡くなった人の供養のため唐船をつくり海に流し、その後浜に引き上げ、船を焼き霊を送る「彩舟流し」という風習を行なっていた。この「彩舟流し」を元に、長崎で精霊流しが始まったと言われている。
精霊流しについて、18世紀後半に出島に在留していたオランダ人ティチングが次の文章を残している。「この祭りの光景は、大変美しく絵のような印象を与える。海に浮かべるために運ばれてきた明かりを灯した舟が、重なり合うようにたくさん集まってくるので、まるで丘から流れ出る火のほとばしりをみているのではないかと思うくらいである。・・」
また、幕末に長崎に滞在したイギリスのホジソン領事夫人は、「私たちはこれまでに見たよりも、もっと美しい“東洋の火祭り”を眺める素晴らしい機会に恵まれました。即ち海の際から、最も高い山の頂上まで、使われている提灯によって色を異にしたひと続きの灯が明々と燃えており、その灯が水面に反射して、この景観の美しい前景を作っておりました・・・・」と書き残している。
精霊舟を浮かべ、海に流していた頃の感想である。残念ながら、今は精霊船を海に流すことはしない。
15日の夕刻、今年も精霊流しが始まった。長崎市内の各所からそれぞれの道筋を精霊船を送る行列が大波止の海辺へと進んでいく。初盆を迎える家々が故人の精霊を送るために美しく飾った舟を送り出す。その舟は藁と竹で擬装され、極楽丸、西方丸、六字の名号、七字の題目、弥陀、観音などの仏画で彩られる。法被姿とハチマキも勇ましい男衆が押していく。チャンコンチャンコンの銅鑼の音、ドーイドイの囃子声、太鼓、三味線、胡弓、笛、ラッパの鳴物。響き渡る爆竹音。この宵は夜半にいたるまで町中が騒音と光の海に化していく。いつもの様に精霊流しが行われていた。
お盆が終わった。 コロナ自粛の中のお盆の行事であった。墓所の提灯の明かりが少なく寂しかった。いつも見られていた山の中腹まで明かりが灯る光の行列が見れなかった。また、精霊船の数がいつもより40%ほど少なかったとニュースは伝えていた。
耳をつんざく様な爆竹の騒音と光の乱舞のばか騒ぎのお盆は長崎でしか見られない。この華やかな精霊流しの陰には、原爆によって失われたあまりに多くの人々への追憶の思いと哀悼のいのりも秘められている。
長崎のお盆の風習は、昔中国の人がやっていたことを元に、長崎の人がやり始めたことである。長崎に育ったものとしては、この風習がいつまでも続くことを祈りたい。
あわせて、コロナが終息して、長崎のお盆が滞りなく行われる日が早く来ることを祈る。