ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

コロナが確認されて一年

ネットニュースで以下の記事を読んだ

新型コロナウイルスの感染が国内で初めて確認されてから15日で1年になります。しかし、収束の兆しは見えず、14日は全国で6600人を超える感染者が発表され、これまでに亡くなった人は4300人を超えています。

2020年1月15日、神奈川県に住む30代の中国籍の男性が、国内で初めて新型コロナウイルスに感染していたことが確認されました。男性は、新型コロナウイルスの感染が広がっていた中国の湖北省武漢から帰国後、肺炎と診断されていました。

感染者は徐々に増え、1度目の緊急事態宣言が出た4月には、1日に発表される感染者が700人を超えました。

5月には100人を下回りましたが、再び増加して7月下旬に初めて1000人を超え、その後、11月に入って急増しました。

今月8日には過去最多の7882人、14日も6605人の感染が発表されています。

政府は、11都府県に再び緊急事態宣言を出しましたが収束の兆しは見えず、14日までに感染が確認された人は、クルーズ船の乗船者や空港の検疫などを含めて31万1353人、亡くなった人は4353人に上っています。

最近では、イギリスで見つかった、感染力が強いとされる変異したウイルスに加え、南アフリカやブラジルから入国した人などからも、国内の検疫などで変異ウイルスが相次いで検出され、政府は外国人の入国を原則、全面的に制限するなど警戒を強めています。」

日本でコロナ感染者が確認されたのは昨年の1月15日で、早くも1年が経過したが収束の兆しは見えないという記事であった。

 

昨年春、コロナがこれから蔓延していく社会について「新型コロナと文明」というタイトルで作家の池澤夏樹氏と哲学者の斎藤幸平氏の意見が新聞に載った。今、私はそれを読み返している。昨年の春、コロナが蔓延する前にそれらの記事を読んだときはそれほど深刻に感じていなかった。しかし、コロナ時代を1年経過して見るとまさにその通りであると感じている。

 

池澤夏樹氏は「会うことを奪われることの苦悩」という題で以下のように述べていた。

「私たちの社会は今まで様々な天変地異を含む困難に直面してきた。その時、お互いが助け合って生きてきた。東日本大震災のときも行動できた。何か手が貸せることはないかと走る回ることができた。死者は帰らないが、避難所に生活物資を届けることに手応えがあった。今回はそれがない。人は人に会ってはいけないと言われる。互いに合わなくて、それを生きてると言えるのか?人間は人と人の間に生きるのが人間である。

誰にでも、いつでも、会いたい相手がたくさんいる。それを奪われることの苦悩が黒い染みのように世界に広がっていく。イタリア人たちは、よく笑って、大声でしゃべって、抱き合って、両の頬にキスして、食べて歌って愛する。それがあの国での病気蔓延の理由だとしたら、人間が生きる意味はどこにあるのか?いま、我々の前にあるのはそこまで根源的な問いである。」

 

 

斎藤幸平氏は「社会の本質を見直す契機」と題して以下のように述べていた。

「新型コロナ対策として働き方の見直しが求められる。テレワークの拡大というような話ではない。むしろ、医療、保育、介護といったケア労働や配送業やゴミ回収など、社会にとって本当に役立たつ仕事が何か、危険の中で私たちの生活を支えてくれるのは誰かが一目瞭然になってくる。だが、そういったサービス業の仕事ほど、機械化が難しいために、これほど社会に寄与しているのに生産性が低いとされ、低賃金・長時間労働を迫られている。そのため、危機の時に必要な仕事が、慢性的に人手不足となり、現場の疲弊を生んでいく。ケアの仕事をもっと評価する大転換が必要になっていく。」

 

今なお、、新型コロナが全世界で猛威を振るっている。人の動きが止まり、各国で経済・社会状況も激変した。まだまだこれからも苦しい道のりが続くであろう。ケア労働の見直しなど手もつけられていない。お二人の意見を再読して、この新型コロナ禍を通してより良き社会へとつなげていく希望だけは失うまいと思う