ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

長崎歴史探訪(北瀬崎から)

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長崎古地図(約200年前)

長崎歴史探訪という講座に参加した。この講座は長崎の古地図に記載されている屋敷の所在地などが現在の地図のどこに当たるのかを探訪していくものである。古地図に示されている海岸線はすでに埋め立てされていて、古地図の海岸線が今では全く想像できないくらい変わってしまっている。それでもかすかに残った石垣などにより確かにこの場所だと確認できた場所も多々あった。200年前の屋敷跡を訪ねる講座は私が知らなかった長崎の歴史を教えてくれた。

 

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S地点をスタートしてG地点までのコース。距離2km、最低高度8m、最高行動21m、累計高度66m、消費カロリー304cal、天気曇り、気温16度、湿度62%
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左:北瀬崎方向遠景                                             右:NHK長崎支局

出発点は「北瀬崎」である。200年前はここの前は海であったが、今は、埋め立てられて海岸線はなくなった。ここはその昔、米を貯蔵する御米倉が置かれていたところである。長崎は傾斜地ばかりで平野がなく米の生産はできなかった。米は船で運ばれてきていたと言う説明であった。その北瀬崎には、今はNHK 長崎支局が置かれている。

 

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大村藩蔵屋敷跡の石垣

肥後藩(熊本藩)と肥前佐嘉藩(佐賀藩)の蔵屋敷跡を通って進んでくると立派な石垣が目に入った。綿密に見事に組まれた石垣である。ここは大村藩蔵屋敷跡である。200年前は長崎は天領であったが、天領になる前、長崎の地は大村藩の領地であった。

 

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左:島原藩蔵屋敷跡地に建つ長崎中央郵便局                       右:新ハシが架かっていた場所

大村藩蔵屋敷の前には大きな道路を挟んで長崎中央郵便局が建っている。中央郵便局は島原藩蔵屋敷の跡地である。島原藩唐津藩とともに譜代大名である。譜代である両藩は幕府から長崎における監督・監視を命じられ、隠し目付けとして恐れられていたと言う話であった。島原藩蔵屋敷大村藩の前に置かれているのは監視というねらいがあったのだろ

うか。島原藩の横を通り新ハシと書かれた橋の場所に来た。新ハシは河口にある橋である。右写真の右手は、200年前は海が広がっていたはずである。今は、埋め立てでずっとビルが続く。

 

 

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左:柳川藩蔵屋敷跡                                    右:江戸時代の石垣

新ハシを渡って進んで来ると、公園にでた。この公園は柳川藩蔵屋敷跡になる。さらに進んでいくと立派な石垣が見えてきた。この辺りは海に向かって傾斜地になっており、傾斜地に作られた石垣が続いている。

 

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左:鹿島藩、鍋島深堀藩蔵屋敷                               右:鍋島深堀藩の石灯籠

柳川藩蔵屋敷を過ぎてまっすぐ進んでくると鹿島藩、鍋島深堀藩の蔵屋敷跡に出る。いまは、駐車場になっている。鍋島深堀藩の跡地の一画に小さな庭園が作られてそこに石灯籠が置かれていた。よく見ると、見ざる言わざる聞かざるが描かれていた。

 

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波止場跡地

元亀2年(1571年)、ポルトガル船が初めて長崎港に入港した。以後もポルトガル船は毎年のように来航し、長崎は国際貿易都市として急速に発展していった。ここは長い岬の先端部分に作られた波止場であった。ちなみに長崎の名前の由来は長い岬から長崎になったと言う説もある。

 

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左:西御役所の石垣 右:出島表門橋

西役所跡地には長崎県庁が置かれていたが、県庁が移転したため現在発掘作業が行われている。西役所跡地は長崎の歴史の中心にあった場所である。歴史的発見を期待したい。

西役所の前は出島表門橋で結ばれた人口の島出島である。出島は海の中に浮かぶ小さな島であったがいまは埋め立てされ周りは陸地になってしまった。現在は、川に面している部分だけなんとか島らしい雰囲気が残っている。将来は四方を海に囲まれた出島を再現する計画が進んでいる。これも楽しみに待ちたい。

 

1571年、ポルトガルとの交易で始まった 長崎開港であったが、時代が変わってオランダ、中国のみと交易することとなった。オランダ、中国以外の船が交易を求めて来航した場合、それらに対して武力で持って追い払うよう幕府は西国諸藩に命令した。その命令以降、西国諸藩は長崎に蔵屋敷を設置して長崎奉行との連携をより緊密なものにしていった。長崎に西国諸藩の蔵屋敷が多いのは長崎港の警備、警戒のためであったと言うことが今日の歴史探訪でわかった。歴史探訪はウオーキングと頭の体操の両方を鍛えられるのが良い。次回も楽しみにしたい。