ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

450年前の長崎を歩く

 

f:id:battenjiiji:20210430125150j:plain

450年前の長崎地形想像図

長崎が開港される1年前、元亀元年(1570年)ポルトガル人フィゲイレド神父は長崎が港としての適性を持っているかどうかを調査した。その結果、海は深く、三方にめぐる山々は波風を防ぐ絶好の投錨地であることを認め領主である大村純忠と協約して長崎開港が決定した。翌年1571年、ポルトガル船が初めて長崎に入港した。

長崎港が開港されて南蛮貿易が始まり年々盛んになっていった。それとともに長い岬に6カ町の新しく町が作られていった。長崎は大村純忠によりイエズス会に寄進され、イエズス会の本部が置かれた。そして長崎に住むポルトガル人や日本人の信仰の中心として岬の突端にサンパウロの教会(岬の教会)と名付けられた教会が建てられた。長崎はキリスト教の一大拠点となり、以来1614年徳川幕府によりキリスト禁教令が出されるまでキリストの町として発展し、小ローマと呼ばれる町が実現した。それが長崎の始まりである。

 

f:id:battenjiiji:20210430133205j:plain

S点から矢印方向にG点までのコース。距離2.8km、最低高度7m、最高高度20m、累計高度74m、消費カロリー412cal、天気晴れ、気温21度、湿度54%

450年前の想像図にあるように長崎には長い岬があって岬の周りは海であった。その海岸部に沿ってできるだけ歩いてみようということで、長崎市役所をスタート地点にして時計回りで岬の海岸部の痕跡を探りながら歩くことにした。

 

f:id:battenjiiji:20210430135939j:plain
f:id:battenjiiji:20210430140127j:plain
左:長崎市役所                                        右:市役所前から岬の教会方向を見る

スタート地点の長崎市役所は岬の尾根部分に位置している。市役所前から岬の教会方向を遠望すると、現在は尾根伝いに大きな道路が作られている。450年前長崎開港して以来、尾根に沿って町が造られていったが、町が造られる以前は森崎という名前で呼ばれた深い森であったらしい。

 

f:id:battenjiiji:20210430142524j:plain
f:id:battenjiiji:20210430142558j:plain
尾根から東側海岸方面を見る

尾根から海岸方向を見ると下り坂になっている。下って平たくなっているところが450年前の海岸線である。そして、遠くに見える緑の木々に覆われた山の麓が対岸の海岸になる。長崎は平地のない土地である。岬側の海岸から対岸の海岸まで町の発展とともに450年という歳月をかけて埋め立てしながら平地を作ってきたのが一目瞭然である。先人の努力を思う。

 

f:id:battenjiiji:20210430144348j:plain
f:id:battenjiiji:20210430144156j:plain
江戸時代の石積み

昔、護岸だった場所には石垣が残されていることも多い。石垣の石積みの方法によって時代が特定できる。この石垣は江戸時代に作られたものである。ほとんど加工されていない自然石を野面積みして石膏と粘土で作った天川(あまかわ)と呼ばれる接着剤で固めたものである。

 

f:id:battenjiiji:20210430173423j:plain
f:id:battenjiiji:20210430173329j:plain
明治時代の石垣

江戸時代は自然石をそのまま積み上げる方法であったが、明治時代になると四角に加工された石が使われるようになった。その規格された石で積まれた石垣がそのまま残っている。こは明治時代に埋め立てされた場所であることがわかる。

 

f:id:battenjiiji:20210430202056j:plain
f:id:battenjiiji:20210430202009j:plain
ポルトガルの幸運を呼ぶ鶏

昔の海岸線の痕跡を探しながら歩いていたらカラフルな鶏の像「ガロ」をみつけた。「ガロ」はポルトガルで「雄鶏」という意味で、「ガロ」はポルトガルで奇跡と幸運をもたらす鶏として国民に親しまれている伝統工芸品である。長崎は1973年にポルトガルポルト市と友好姉妹都市を締結している。その関係で市内で一番多くポルトガル人が滞在した築町にポルトガルの伝統工芸品であるガロの像が置かれているのだと思う。ちなみにポルト市は1571年に長崎に向かったポルトガル船の母港である。

 

f:id:battenjiiji:20210430211017j:plain
f:id:battenjiiji:20210430211149j:plain
岬の先端部分の垣

岬の先端部分の海岸線と思われるところにある石垣を見る。この石垣は約200年前に作られたものである。450年前の遺跡は何も見つからない。450年前、この辺りに岬の教会が建っていたが、どんなに発掘調査をしてもその頃の遺跡はほとんど何も出てこないという。それは、出島を造成するときにこの辺り一帯の土砂を削り取って埋め立てに使ったからだと言われている。岬の教会の跡地には、その後長崎奉行所の西役所ができた。西役所時代の遺跡はいろいろと出てくるが、450年前のポルトガル時代の痕跡は何もない。

何でもいいから450年前のポルトガル時代の痕跡を探したが何も見つけることはできなかった。本当にポルトガル人は来たのだろうかと疑問に思う。しかし、やはりポルトガル人は間違いなく来たのだと確信できることがある。それは言葉である。私たち長崎人は昔からポルトガル語源の言葉を使っている。

ガラスのことをポルトガル語源のビードロ(video)と言う。石鹸のことをポルトガル語源のシャボン(sabao) と言う。兄さんのことをポルトガル語源のアンシャマ(anciao)と言う。これのことをポルトガル語源のコイサ(coisa)と言う。

長崎は年代によって歴史が変わる。ポルトガルのその後はオランダが引き継いだ。次はオランダ時代の痕跡を探す町歩きをしてみたい。