ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

雨上がりの深堀散歩

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赤点をスタートして赤点に戻る周回コース。距離5.32km、歩数8,323、最高高度23m、最低高度2m、累計上昇高度58m、消費カロリー378kcal、天気曇り、気温23度、湿度92%

毎日、毎日、雨が続き散歩がしばらく出来なかった。もし明朝、雨が降っていたら、雨具を着用して散歩をしようと思っていたところ、朝起きると雨は上がっていた。雨雲レーダーを見ると「14時頃雨が降ります」という表示が出ている。昼過ぎまで雨は降らないということなので、久しぶりに散歩を楽しむことにした。連れ合いから「崖崩れが怖いから、山の方は行かない方がいいよ」と言われたので、今日は隣町の深堀を散歩することにした。

 

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深堀には香焼中学校経由のコースで行くことにした。中学校の正門を過ぎてグランドに沿って進み、中学校の角を左折して海辺に向かう。コロナでなければ、早朝から生徒がグランドで練習しているのを見ることもあるが、今日はグランドに生徒の姿は見えない。

 

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中学校に沿って作られた道路を進んでいくと、中学校が途切れるところに石碑が建っている。石碑には「祈平和」と彫られている。案内文には「福岡俘虜収容所第2分所跡記念碑」とあり、「アジア太平洋戦争中の1942年10月25日、戦時捕虜収容のため、この地に八幡仮俘虜収容所長崎分所が開設された。ここにはセレベス島やシンガポールなどから送られたオランダ、イギリス、アメリカ、オーストラリアの兵士や民間人など、最大時には1500人余が収容され、川南工業香焼造船所での労働に従事させられた。1945年9月13日に解放されるまでの間に亡くなられた73名および苦難を重ねたすべての犠牲者を慰めるため、戦後70年目に記念碑を建立する。2015年9月13日」と書かれていた。

76年前、この中学校の地に俘虜収容所が建っていた。そして、そこに収容されていた捕虜の人たちは香焼町の軍需工場で働かされていたということである。「祈平和の碑」の両脇の石碑にはこの地で亡くなられた73名の方の名前が刻まれていた。

長崎は原爆の被曝地である。それとともに、長崎では捕虜に強制労働を強いていたという事実もしっかりと記憶に留めておきたいと思う。私たちは過去を直視して、被害と加害の両方をしっかり記憶に留め、二度と同じ過ちを起こさないようにしなければと思う。

 

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「祈平和の碑」を過ぎて長い防波堤の道に出る。防波堤の端、突き当たりが今日の散歩コースの目的地深堀である。今日の海は波が立たず、穏やかで静かである。海はさまざまな表情を見せるが、今日の海みたいな油を流したような海も好きだ。

 

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深堀は見どころが多い町である。今日の散歩では、まず、深堀教会の近くにある立派なアコウ樹を久しぶりに見たいと思い、アコウ樹に会いに行った。アコウはクワ科の常緑高木である。
このアコウは樹高およそ20 m 、胸高幹回り6.9 m、東西・南北方向へそれぞれ25 m の枝張りである。アコウの巨木の多くは、地上まもなく数本の幹に分かれ、大きく横に広がり、横に広がった幹や枝から気根や支柱根を垂らし、アコウ樹独特の樹形を形作る。しかし、ここのアコウ樹は地上4 m まで直立し、さらにそこから出る幹は横に伸びず、高く上に伸び、美しい樹形を作っている。美しい樹形がここのアコウの特徴である。

 

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アコウ樹の横を通って進んでいくと、「深堀陣屋跡」という石碑が建っていた。案内によると「この地を深堀能仲が地頭として治めたのは慶長7年(1255年)のこと。深堀能仲は上総国深堀(千葉県いすみ市)の出身で、能仲が承久の乱の勲功により戸八ケ浦と呼ばれていたこの地へ下って来ると、この地は領主の名を取って深堀と呼ばれました。深堀陣屋とは深堀領主の居城のことであり、通称はお屋敷と呼ばれていました。」と書かれてあった。

ここの高台一帯は深堀領主の居城であったようだ。この石垣はいつ積まれたものかわからないが、この石積みにも歴史を感じる。

 

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「深堀陣屋跡 」を出て、次に深堀能仲によって建てられた菩提寺に行く。本堂に参拝した後、21基の墓石が並んでいる深堀義士の墓にお参りした。

元禄13年(1700年)12月19日、長崎の深堀屋敷に詰めていた深堀藩の深堀三右衛門(69歳)と柴原武右衛門(59歳)は長崎の有力者である高木家の使用人惣内と喧嘩になった。喧嘩の原因は三右衛門が雪解け道に足を滑らせて泥を跳ね、惣内の合羽を汚したというものであった。その場はなんとか納ったものの、その日の夕刻、惣内は仲間を募って長崎の深堀屋敷に押しかけ、三右衛門と武右衛門の刀を奪ってしまった。

事ここに至って、三右衛門と武右衛門は、武士の面目をかけて討ち入りを決意した。急な知らせを受けた深堀藩では、すぐに第一陣として10人が長崎に発ち、その後、話を知った9名が第二陣として応援に向かった。19人もの応援を得て、20日夜明けとともに、高木屋敷に討ち入り、高木家当主をはじめ用心棒や使用人多数を討ち果たした。討ち入り後、三右衛門と武右衛門はその場で切腹し、翌14年3月21日、第一次応援の10人は切腹、第二次応援の9人は五島に遠島とそれぞれ処せられた。この討ち入りは忠臣蔵の一年前の出来事で、大石内蔵助も家来を遣わすなど吉良邸討ち入りの参考にしたと言われている。命をかけて武士の面目を保った21名は、今も深堀義士として敬まわれ語り継がれている。

 

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深堀義士の墓碑にお参りした後、深堀武家屋敷跡を通って帰路に着く。深堀は漁港の町であり、武家屋敷の町であり、縄文時代貝塚遺跡の町でもある。隣町の深堀は面白い。