ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

宮台真司氏の番組「現代社会をRethink せよ」を見る

社会学者の宮台真司氏は昨年、勤務先の都立大学校内で暴漢に襲われて重症を負った。宮台真司氏の報道に接する中で、宮台氏に興味を持ちネットで宮台氏の番組を拝聴した。今回私が見た番組は、宮台氏が日本の思想を語る「現代社会をRethinkせよ」という番組である。この番組は2年前にネットにあげられた番組であったが、宮台氏の話を聞いて、その広く深い知識から発せられる言葉に強い説得力を感じた。今まで私が知らなかった視点の話をお聞きして、日本の現状を認識する上でとても参考になった。

冒頭、ナビゲーターの波頭亮氏が、「この20年、日本の資本はどんどん巨大化していった。しかし、日本に住む人々の生活は一向に豊かにならないで停滞している。日本は、人が幸せになるための世の中を実現できているのだろうか。現在の状況は思想的にどのようにとらえるべきかを宮台さんにお聞きしたい」という話で始まった。

 宮台氏は次のように語った。「私の恩師は廣松渉小室直樹である。二人に共通な思想は主意主義です。主意主義は人間の精神である意思の働きを重視する思想で、反対は主知主義で感情や意思よりも知性を重視する思想です。主知主義はシステムがちゃんとすれば、制度がちゃんとすれば、社会がちゃんとすれば人は幸せになれるという思想であり、逆に主意主義は、社会がちゃんとしても、あるいはちゃんとすればするほど人は不幸せになる。人はそれでは幸せにならないという思想です。

 主意主義を具体的にいうと、システムがちゃんとすると、人はさらにシステムに依存する。システム依存度が高まると、例えば弱い人がいても、システムが助けるはずと考え、自ら動いて助けようという意欲がなくなってくる。弱い人もシステムに依存し、他の人に助けてもらおうという意欲もなくなってくる。そうなると人間関係がバラバラとなっていき、基本的に人倫の世界は終わる。つまり人間社会が壊れていくことになる。19世紀末に活躍した社会学者マックスウエーバが、それを指摘しています。そういう意味で古典は大事です。

 マックスウエーバは、ニーチェの影響を強く受けた思想家です。ウエーバは資本主義社会の未来をどのように考えたかと言うと、近代化というのは合理化のことで、合理化は計算可能ということです。計算可能化すると複雑なシステムを営むことができるようになり、そうなると、いろんなところに資本を流し込んで、経済発展をすることができるという思考です。彼は経済発展の先に現れる現象も見据えていて、計算可能性の中でだけ振る舞うクズ、言葉の自動機械、法の奴隷、損得マシーンのような存在の人間が広まっていくと、二つの困難が生じる。まず、その中からみんなのために働く政治家が出てくるのかという問題、さらに、そういう政治家が出てきたときに、民主的に人々が政治家を選ぶことができるのかどうか、基本的にこの二つについて、ウエーバは絶望していた。人々はクズになっていき、クズが営むクソな社会、このような世界がずっと続くだろうと考えていた。

 ウエーバのものさしで、今、我々が置かれている状況の全体を評価できてしまうし、ウエーバはそれを想定済みとして処方箋を模索していた。彼が答えを出したかどうかはよくわからないが、どうしてこうなったかを遡っていくと根はとても深い。ニーチェによるとギリシャ時代にまで遡るくらい根が深い。では、どのような根っこかというと、条件プログラムが全ての出発点になる。つまり、悪いことが起こるのは神に逆らったからだ。神の言葉に従うと良いことが起こるというこの条件プログラムは、これは主知主義の主軸です。
 この条件プログラムに人々が依存するようになることを、ギリシャの人たちはすごく軽蔑した。なぜなら、世界はそもそもでたらめなので、神に這いつくばったところで何も生じない。ギリシャ人は、この条件プログラムを弱者が奴隷になる思想だと考えた。それを19世紀になって反復して近代人に知らしめたのがニーチェです。では、ギリシャの人々はどのように考えていたかというと、まさに、「不条理であっても我往かん」という考えです。

 つまり良いことがあるから何かをするのではない。イエスの教えはいい事をすると救われるという戒律ではない。むしろ、良いことをすると救われるので、戒律に従うという考え方を持っている者はイエスから見るとクズです。困っている人がいたら思わず体が動き、心が動くような存在にしか神は関心はない。これがギリシャ的な発想です。

 後先を考えてコストを下げようとか、利得を最大化しようとかいう発想は、それがないと近代システムは存在しないし、複雑なシステムは回らない。しかし、人間がそういう考えだけに閉じ込められてしまったら、我々はもはや人間であり続けることはできないということです。要するに、神に従うというのは主体性がないということだし、しかも現在は神ではなく、その代わりに中心にあるのは利得だけになっているということです。利得のためだったら何でもする、自分の我とか感情まさに自分の意識も全て、利得に支配されたらクズだぞということをマックスウエーバは警告しているのです」と語っていた。

 最後に宮台氏は視聴者へのメッセージとして「社会という荒野を仲間と生きよ」という言葉を掲げていた。宮台氏はそのメッセージを説明する中で、「現在、我々は誰かが操縦を間違えてここにいるのではなく、必然として現在地にあるということです。近代化を突き進むと荒野にたどり着いたということです。その結果、現在、自宅で亡くなる4人に一人が孤独死で、誰も看取ることなく亡くなっているという現実がある。ラインで繋がっているはずの大学生も孤独死している。そういう現実を踏まえてまず仲間は不幸にさせないぞ、自分の仲間は必ず守るということから始めてもらいたい。仲間と生きることから始めてもらいたい」と述べていた。

 私が小さい頃、日本は貧しかった。それでもみんな明るかったように思う。現在は、豊かになったが幸せにはなれない。それは誰のせいでもない。必然的な結果だという。利得しか考えない人間ばかりの社会は衰退する。オレオレ詐欺の実行犯も、オリンピック利権に群がった経営者や大企業社員も、票のために統一教会に協力した政治家もみんな利得のため魂を売ったクズである。クズが増えるのは想定済みだったらしい。クズが増えるとそれによってますます社会がクソ社会になるという図式らしい。確かにそうだろう。そういう宮台氏の話を聞きながら、自分も利得まみれの人間に陥っていないかを自省する。

 幸せになるために、個人的にどうすべきか?宮台氏は「社会という荒野を仲間と生きよ」と言った。つまり、信頼できる、価値観を共有できる仲間と繋がり合えることしか幸せはないと言っている。「この荒野でも、絶対仲間を不幸にしない」という信念を持ち続けることしか幸せは来ないようだ。まず、できることから確実にやっていきたいと思う。