ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「福田村事件」を読む

  今から100年前、1923年(大正12年)9月1日11時58分に、相模湾北西部を震源とするマグニチュード7.9と推定される関東大震災が発生した。この地震により、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、山梨県で震度6を観測したほか、北海道道南から中国・四国地方にかけての広い範囲で震度5から震度1を観測した。また、発生が昼食の時間と重なったことから、多くの火災が発生し、大規模な延焼火災に拡大した。この地震によって、被害を受けた住家は総計37万棟にのぼり、死者・行方不明者は南関東および隣接地を中心に約10万5000人に及ぶなど、関東大震災は、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害もたらした。

 関東大震災という未曾有の地震発生とともに、発生した事件が関東大震災朝鮮人虐殺事件である。関東大震災の混乱の中で「朝鮮人共産主義者が井戸に毒を入れた」「社会主義者及び鮮人の放火多し」「不逞鮮人暴動」などというデマが流れ、それを信じた官憲や自警団などが多数の朝鮮人共産主義者を虐殺した事件である。朝鮮人かどうかを判別するためにシボレスが用いられ、国歌を歌わせたり、朝鮮語では語頭に濁音が来ないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した。また、福田村事件のように、方言を話す地方出身の日本人や聾唖者が殺害されたケースも起こった。

 朝鮮人が凶悪事件を起こすとか暴動を起こすとかいう噂があって、それを当時の国民が信じて自警団を組織したりして対策したのは、1905年日露戦争に勝利した日本は韓国の経営に乗り出し、1910年に韓国併合を強行し、韓国を植民地化したことで韓国国内においては日本の植民地支配に対する反日抗議活動が活発化していたことが背景にある。1909年には初代韓国統監に就任した伊藤博文ハルビン駅において韓国の独立運動安重根に狙撃されて死亡した事件も起こっていた。

 
 著者の辻野弥生さんは著書「福田村事件」について、冒頭次のように語っている。「私は関東大震災に関する記録に目を通す機会があった。その際、私の心を釘付けにしたものは「朝鮮人虐殺」という信じがたい惨劇の記録であった。関東大震災朝鮮人虐殺事件は人災の極みである。朝鮮人蔑視の風潮が田舎の隅々まで蔓延していたことである。このことは消すことのできない負の遺産として心に留めておく必要がある。虐殺されたのは朝鮮人ばかりでなく、中国人や日本人もいたことを忘れてはならない。
 福田村事件は虐殺事件を調べる中で出会った痛ましい事件であるが、関東大震災から90年、当時の様子を語れる人は無にひとしい。この事件は加害者も被害者という側面をもっており、いまさら加害者をあばきたて、糾弾しようというのではない。ただ、私の驚きと衝撃を教訓にし、記録にとどめて後世に伝えたいという一心で重いテーマに取り組んで見た」と記していた。
 辻野さんが掘り起こした福田村事件の概要は次の通りである。
1923年9月6日、午前10時頃 、香川県からやってきた売薬の行商団の一行が、千葉県葛飾郡福田村大字三ツ堀(現在は野田市三ツ堀)に差し掛かり、香取神社の境内で休んでいた。そこを警戒に従事していた村の自警団が見つけ、朝鮮人の疑いありとし、様々な尋問を行い荷物を検査したところ、四国弁で言語不可解な点があったため、全くの朝鮮人なり と誤認し、警鐘を乱打して村内に急を告げ、隣村にも応援を求めるに至った。
 その結果、数百名の村民がたちまち武器を手にして同神社前に殺到し、売薬の行商団を包囲し、「朝鮮人を打ち殺せ」と騒ぎ立て、行商団が百万言を尽くして「日本人である」と弁明したにもかかわらず、朝鮮人に対する恐怖と憎悪にかられて平静を失った群衆は最早弁解に耳を傾けるいとまもなく、荒縄で縛り上げたり、鳶口、こん棒を振って殴打暴行し、ついには「利根川に投げ込んでしまえ」と怒号し、香取神社から北方約1丁の距離にある三ツ堀の渡船場につれていき、行商団員九名を利根川の水中に投げ込み、内八名を溺死させたが、他の1名が泳いで 利根川の対岸にのがれんとするや、群衆中より船で追跡するものが現れ、対岸でこれを惨殺し、残った六名の行商団員は急報に接して駆けつけた巡査等のため、からくも救助され死を免れるなど騒擾を極めた。この事件の死亡者9名の内訳は成人男性4名、成人女性2名および6歳男児、4歳女児、2歳幼児の子供3名が含まれていた。しかも成人女性の一人は妊娠中であった。

 この事件について、大正12年11月29日付け東京日日新聞は「千葉県福田村の売薬行商人9人殺しの公判が行われ、被害者は女や子供を連れ沢山な荷物を持って川を渡って逃げんとするのを、川の中へ突き落として殺したるは、慘虐も甚だしいもので情状酌量の余地なしとして、被告人8人に対して懲役15年から懲役7年の刑を求刑した」という記事を載せている。被疑者は判決を受け上訴していたが、大正13年9月控訴審判決が出され懲役10年から3年に減刑され収監された。

自警団の村民が殺人犯として入監する際、村から一人あたり八百円の餞別を贈られた。また村民は、入監者の家族に同情し見舞金を千円づつ贈り、繁忙期には入監者の家族の手伝い等をして家族を慰撫している。そして1926年12月25日、大正天皇の死去により恩赦が行われ、福田村事件加害者8名も入監から2年5ヶ月後に全員恩赦で無罪放免になった。

福田村事件の記録を読み、驚くばかりである。この事件は日本人が日本人を虐殺した事件である。虐殺の原因は朝鮮人と誤認したことによる。朝鮮人であれば女子供も含め誰でも殺しても構わないという意識が日本中に蔓延していたことを考えると恐ろしいと思う。闇に葬られていた福田村事件をよく掘り起こしたものだと思う。私たちは二度と同じ過ちを犯さないために、地域に住む平凡な良い人がこのような虐殺を行ったという事実を私たちはしっかりと心に留めておく必要があると思った。