ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「アクト・オブ・キリング」を見た

映画「アクト・オブ・キリング」を見た。この映画は虐殺の映画である。ナチスユダヤ人大虐殺だけでなく、人類はこれまで何度も大虐殺をやってきた。それが、昔ではなく、現在も続いているということを見せつけられた映画であった。

 この映画は、架空の話を映画にしたのではなく、実際に起こったことを再現したドキュメント映画である。映画の舞台はインドネシアである。1960年代のインドネシアで、被害者は100万人とも言われる規模の大虐殺があったが、大虐殺の真相は今も闇の中である。大虐殺の事件の発端は、1965年9月30日にスカルノ大統領親衛隊の一部がクーデター未遂を起こしたことである。後に大統領となるスハルト少将(当時)によってそのクーデターは鎮圧されたが、その後の調査でクーデターの黒幕は共産党とされたことから、インドネシア全土で共産党員やその支持者や華僑らが次々と殺害されていった。それが大虐殺の始まりである。大虐殺の実行者は軍ではなく、“プレマン”と呼ばれる民間のやくざ・民兵たちであった。そして、驚くべきことに、殺人の実行者である彼らはいまも“国民的英雄”として楽しげに暮らしていることである。その後30余年にわたるスハルト独裁体制のもと、事件に触れることはタブーになり、加害者は今も訴追されていない。

 映画監督ジョシュア・オッペンハイマーは人権団体の依頼で、インドネシア大虐殺の映画を作るために被害者などを取材していたが、当局から被害者への接触を禁止され、映画制作を中断せざるを得なくなった。被害者とは接触もできないが、加害者たちは今も地元で幅をきかせ、英雄気取りで町をのし歩いていた。そこで取材対象を加害者に変更して、取材を行ったところ、加害者である彼らは隠すどころか、進んで大量虐殺の様子を語り始めた。嬉々として過去の殺人行為を再現して見せた。彼らは現在も共産主義者を一掃した英雄として扱われていて、取材について、彼らは自分たちの行為を賞賛するための映画の取材と考え、取材に答えていた。それをきっかけに、「では、あなたたち自身で、あなたたちがやったことをカメラの前で演じてみませんか」と持ちかけたところ、彼らは喜んでその提案を受け、まるで映画スター気取りで、身振り手振りで殺人の様子を詳細に演じてみせた。彼らは出演者を仕切り、衣装やメークを考え、演出にも進んでアイデアを出した。彼らは自分が殺人を起こした現場に出向き、そこであるときは、自分が加害者を演じ、ある時は自分が被害者を演じながら撮影を行った。映画スタッフは黙々と彼らの行為を撮影して映画は完成した。

 映画ができて、彼らはインドネシア国営放送の特別対談番組に出演した。
司会者が「本日のテーマはギャングが作った共産主義撲滅の映画です。その実行者であるリーダーのアンワル・コンゴさんを紹介します。彼はプレマンのリーダーで、1000人の共産主義者を一掃しました」と紹介すると大きな拍手で迎えられた。
続いて司会者がリーダーに質問する。「みなさんはプレマンと呼ばれていますが、プレマンの言葉の起源は何ですか」「プレマンはフリーマンから来ています。意味は自由な男たちという意味です」「みなさんは共産主義を一掃したと言われてますがどのようにして一掃したのですか。それは事務所で行ったのですか」「事務所でも行いました。事務所に連行し、尋問して殺さなければならないと思ったら殺しました。最初は撲殺してましたが、大量の血の後始末が大変なので、途中から締め殺すことにしました」「殺し方はギャング映画にヒントを得ましたか」「ギャングを真似ることもありました。いろんな殺し方があります。例えば、車内で後ろから首を絞めて殺して死体を道路に投げ捨てるなどもやりました」「なぜ、そのようなことをしたのですか」「共産党を撲滅するためにやった。大体1000人くらい殺しました」「若者にとってこの映画の意味はなんでしょうか」「この映画は歴史です。若者は歴史を心に留めておかなくてはいけない。神は反共主義です。神は共産主義を嫌います。だから共産主義を一掃するこの映画は美しい」「100万人が殺されたと言います。被害者の子供たちはなぜ仕返しをしないのでしょうか」「したくないのではありません。できないのです。したら皆殺しにします」会場から大きな拍手が湧く。

 彼らはインドネシア最大の民兵組織「パンチャシラ青年団」と密接な関係を持っていた。「パンチャシラ青年団」は全国に数百万人の団員を擁する巨大組織で右翼的、半軍事的な“ならず者集団”である。映画の中には多くの一般民衆も写し出されているが、このような暴力装置が国中に蔓延っている中では、誰も反対の声も上げることできないだろうと思った。

映画は、美しい景色の中に立つリーダーのアンワル・コンゴに対して殺された人がみんなを天国に送ってくれてありがとうと言って感謝のメダルを贈るところで終わっていた。

 映画完成後、1000人を殺して、それを誇るように、恥じることもなく語っていたリーダーのアンワル・コンゴが「映画の中で被害者を演じて、拷問を受けたり、首に針金を巻かれた時は本当に怖いと思った。」と監督に語った。「あなたのは、首を絞められるのもすべて演技だ。しかし、実際にあなたに殺された被害者は決して死から逃れられなかった。その怖さは比較にならない」と監督は言った。彼は初めて、心の動揺を見せた。「殺すしか仕方なかったのだ。それしか方法はなかったのだ。それなのに俺は報いを受けるということか。俺は嫌だ」と言いながら激しく嘔吐した。彼の苦しみ、苦悩がこの映画から始まった。彼も時代の犠牲者なのかもしれない。