ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「先生が足りない」を読む

先日、“失われる先生の命”という記事を読んだ。
福井県若狭町立中学校の新任男性教師Aさんが採用されて半年後の2014年10月に自家用車の車内で練炭自殺した。Aさんは1年生の学級担任を受け持ち、社会と体育の教科指導をしながら、野球部の副顧問として野球部の指導も行っていた。休みは月に2〜3日で、時間外業務は毎月128時間から169時間に上っていた。またある生徒をめぐっての保護者対応でも苦心していた。Aさんは日記を欠かさずつけていたが、5月13日の日記には「地獄だ。いつになったらこの生活は終わるのだろう」6月20日「生徒保護者と面談をする。どう話しても烈火の如く反撃がくるのでもうお手上げだ。これでは担当降ろしの署名活動も嘘ではないようだ。あまり疲れて考える気力もわかない」日記の最後には「疲れました。迷惑かけてしまいすみません」と書かれていた。業務量の多さと長時間労働に加えて保護者対応などをめぐるストレスが高かったことがわかる日記の記述である。自死したAさんは1年目の先生である。
Aさんの事例は特異な事例ではなく、たいへん似通った過労死や過労自殺が立て続けに起きているという内容であった。似通った内容は以下の通りである。
新人なのに重い責任を負わされ、周囲のサポートが少ない。
校長や指導者役が新人を精神的に追い詰めてしまう。
保護者の理不尽な要求や特別な支援が必要な子へのケアで悩み苦しんでいる
授業準備、部活動、事務、学級運営などさまざな仕事が重くのしかかり長時間労働で体や心を破壊するなどである。
亡くなられた先生はみんな「出会えてよかったと思ってもらえる教員になりたい」という夢を抱いて教職という道へ進んだのに、その教職という職業は死と隣り合わせの現場にあるという内容で驚いた。

 どうして教員という職業がここまでブラック化したのだろうかと疑問に思っていた時に「先生が足りない」という本を見つけた。この本の著者は朝日新聞編集委員の氏岡真弓氏である。2011年、氏岡さんは教員不足という問題に着目して調査し、記事を書いた。しかし、当時は一般読者からも教育関係者からも驚くほど反響がなかったと書いている。反響がなかったことについて、教員には正規教員と非正規教員の二種類が存在して、不足しているのは非正規教員であったため、根本的な問題と理解されず、それほど関心を集めないのだと氏岡氏は理解した。
教員不足の記事を書いて以来、教育問題を取材し続けて10年が経ったが、今も教員不足は続いている。しかも不足しているのは正規教員ではなく、10年前と同様に非正規教員である。しかし、教員不足の状態はますます深刻化して、先生が足りない状態は公教育の崩壊とまで言われるような事態になっている。氏岡氏はこの著書の中で教員不足の根本問題を明らかにしている。

 教職のブラック化と教員不足問題は密接に関連する。教職のブラック化と教員不足問題の発端は国の施策である2000年以降の地方分権改革、規制緩和に関連する義務教育費国庫負担制度の改革から始まる。これは義務教育費を国が負担する根拠となる制度であるが、これまでは国の負担は正規教員に限るなど、さまざまな厳しい制約が設けられていた。しかし、働き方改革などもあり、正規も非正規も国庫負担金を使えることに変えたことから、非正規教員が増えていった。さらに公務員改革が行われ正規公務員の削減政策が行われ、教育分野においては、少子化という背景もあり教員数を削減され、教員予算が削減されていった。予算削減の結果、必要な教員数を確保するために非正規の採用が増えていった。正規教員はますます仕事の密度が増し、非正規教員においても低賃金で同じ質量の仕事が要求されるようになってきた。そのような状況で過労死レベルの教員の労働時間が生まれ、学校現場での病休がますます増えていった。しかし、そこまでブラック化した教職を希望する若者はさらに激減していき、予算の関係で非正規教員の不足が常に継続するという、教育現場はまさに負のスパイラルに陥ってしまっているようである。

 教員不足が起きている教室では、憲法が規定する「教育を受ける権利」が損なわれ、公教育が崩壊しつつあると言ってもよい。日本は1990年以降、新自由主義の発想でさまざまな政策が行われてきた。働き方改革という名のもとで、正規公務員を削減して非正規に変えていった。教育現場も同じ手法が取り入れられた結果、義務教育が崩壊するところまできてしまった。早急に教育現場を立て直さなければならない。今までの新自由主義的手法でいいのか立ち止まって考える必要がある。