ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「この国の同調圧力」を読む

この本は、日本社会に根強い同調圧力という社会現象についてさまざまな角度から光を当てて分析して、そのマイナス面を克服する方策について書かれていた。
以下に内容の一部記す
 同調圧力によって、人々の行動を画一化したり、人々の思考を特定の方向性に統一するようなことを国家あるいは権力者集団が行った事例は数多く存在する。

 2022年9月27日に、安倍晋三元首相の国葬が行われた。しかし、法的根拠の曖昧さから国民の反対意見も根強いものがあった。そのような中、自民党二階俊博元幹事長は9月16日「国葬が終わったら反対していた人たちも必ずよかったと思うはず。日本人ならね」と述べた。この発言は、自分が日本人だと周囲に思われたいのならば、国葬に賛成せよ、という同調圧力に他ならない。けれども、やり方があまりにお粗末だったせいか、国葬に対する批判を弱め、多くの国民に賛同させようという「同調圧力の創出」は結局失敗に終わったが、このように国民に向けてさまざまな同調圧力がいろんな形で作られている。

 日本で「同調圧力」と呼ばれている社会現象あるいは心理的状態を、英語では 「ピア・プレッシャー」と呼ぶ。つまり「同調圧力」は、日本独自のものではなく、欧米諸国を含む諸外国にも、程度の差こそあれ、存在している。

 日本に限らず、どこでも「同調圧力」は存在するが、それらの圧力に「抗う力」あるいは「抗う勇気」を、国民や市民がそれぞれの内面に持っているかどうかが問題である。集団の中で何らかの同調圧力が存在したとしても 、一人一人の国民や市民が、それに抗うだけの「抵抗力」を持っていれば、同調圧力で集団に従わせる効果は激減する。逆に、それに抗うだけの「抵抗力」を一人一人の国や市民が持たなければ、同調圧力で集団に従わせる効果は逆に強化される。

 この同調圧力に対する「抵抗力」は「個人意識」である。人間は一人一人が独立した存在であり、それぞれがオリジナルの考えや価値観、行動規範を持ってもいいという考え方に根差している個人意識である。この考え方が子供の頃から内面化していれば、たとえ集団や共同体内部で多少の同調圧力があったとしても、それを無視しても問題ではないという行動を取ることができる。

 日本でとりわけ同調圧力が強いように感じられるのは、それは社会の中で「個人」を尊重しようという風潮と、一人一人の国民の「個人意識」が諸外国に比べて少ないからではないかと思われる。「個人を尊重しない社会や国家」とは、つまり、社会や国家という集団を守るためなら平気で「同調しない人間」を虐げたり殺したりするような方向へと進んでいくと、過去の歴史が我々に教えている。

 国民の大多数が、同調圧力に弱い国民、自発的に「多数派」と同調することを選ぶという状況は、民主主義に価値を認めず、国民全員を自らの支配下に置きたいと思うタイプの政治指導者にとって、理想的な状況である。そのため、非民主的な国の支配者層は、学校の教育内容に積極的な介入を行い、道徳教育などの名目で、自発的に「多数派」と同調する国民を増やそうとする。大日本帝国時代の日本では、「教育勅語」と「皇民化教育」によって戦前から子供に「戦時心得」のような 好戦的思考を植え付ける教育がなされていた。
 その後、大日本帝国という国家体制は1945年の敗戦で事実上崩壊し、日本は1952年に新生国家「日本国」として再スタートを切った。しかし、大日本帝国という権威主義の抑圧から解放されて「自由」になったはずの戦後の日本でも、「全体の秩序」を「自由」より優先する考え方は廃れることなく、社会のあちこちに残された。全国の公立学校でも、戦前・戦中のような天皇崇拝こそ強制されなくなったものの、一人一人の「自由」より「秩序」を優先する権威主義的な考え方が、様々な形で継承されてきた。

 2019年、OECD(経済協力開発機構)は加盟各国の学校と教員の環境、学校での指導状況、教員が持つ意識などに関する調査結果をまとめた「国際教員指導環境調査」のを公表した。
 それによると、学校で「児童生徒の批判的思考を促す」教育をしているかという問いについて、「非常によくできている」「かなりできている」「いくらかできている」「全くできていない」の4択で最初の2つと答えた教員の割合は参加 48か国の平均では82.2%であったが 日本の中学校では24.5% 、小学校では22.8%であった。また、生徒に「批判的に考える必要がある課題を与える」という問いでは、「いつも」「しばしば」「時々」「ほとんどなし」の4択のうち最初の2つと答えた教員の割合は、参加48カ国の平均は61.0%であったが、日本の中学校では12.6%、小学校では11.6%であった。この2つの問いの両方において、日本は参加48か国中ダントツで再下位であった。
 ここで問われている「批判的思考(クリティカル・シンキング)」とは、物事を鵜呑みにせず、上位者から与えられた説明や解釈が妥当であるか否か、嘘をついていないかを自分の頭を使って、様々な角度から検証する思考能力を指す言葉である。日本では「批判 」という言葉は否定的と混同して使われることも多いが、批判的思考は必ずしも 対象を否定的に捉える思考ではなく、論理的に問題点の洗い出しを行うことで、対象の完成度を高めるという効果を期待する、民主主義教育の原点に位置すべきものである。
 日本の小学校や中学校で、批判的思考力を育てない理由は いくつか考えられる。その一つは、集団に属する 一人一人の人間が自律的に物事を考えて行動することよりも、むしろ集団の「秩序」を乱さず、集団内での地位が上の人間の言葉に疑問を抱かずに、黙って服従することが、日本の社会では優先されやすい という現実である。全員が同じ歩調で同じ方向を向き、全体行進のように一糸乱れず、手や足の動きまで揃えた方が、集団の秩序が保たれて良い結果を残しやすい。日本の学校教育では、大日本帝国時代はもちろん、戦後の日本国になっても、こんな「秩序」優先の考え方が主流で受け継がれている。

 この本を読んで、日本人は同調圧力に弱いというのは、「多数派」に同調するように教育されていることが一要因みたいだ。個人より全体の秩序を重視する教育が戦前からずっと継続して小中学校で教育されてきていることが下地にあるようだ。個人を中心とした教育に変えなければ同調圧力は日本に特有の社会現象としていつまでも残ることになる。これが改められることなく続くのは今の自民党政権にとって都合が良いからなのだろう。愛国心の醸成などの道徳教育への介入も同じ狙いなのだろう。自民党政権を倒すしか未来を開く道はない。