内田樹さんの著書「街場の成熟論」を読んだ。語られている話題は国内問題から国際問題まで多岐にわたり、また社会への深い考察は参考になるものが多くあった。その中に「歌わせたい男たち」という題の一編があった。「歌わせたい男たち」というのは都立高校の卒業式での国歌斉唱で不起立を宣言している教師と、それを説得する校長の緊迫した議論を核にした戯曲である。それが14年ぶりに再演された。その戯曲のテーマである「国旗国歌について」内田さんは意見を求められ、下記の文書を寄稿したとして著書に収められていた。
「国歌を歌い、国旗に一礼するのは『国家に対する敬意の儀礼』である。だから、国民にそうしろと命令できるし、違反したものには処罰が下されて当然だと、おそらく多くの政治家や官僚は思っている。でも、私はそう思わない。私たちの多くは日本国民であることの認否について意見を徴されたことがない。気がついたらもう日本国民だった。国旗国家についてもそうだ。私はそれを制定する場に立ち会っていないし、『国歌国旗はこれでよろしいですか』と当否について意見を徴されたこともない。自分で選んだものではない以上、国旗国歌については 『私はそれを受け入れられない』と宣言する権利は全国民に認められるべきだと私は思っている。
ご存知の方も多いと思うが 、アメリカ合衆国最高裁は国旗損壊を市民の権利として認めている。かつては国旗の冒涜を禁止する州の法律があった。だが、20世紀の終わり頃に、米最高裁判所はこれらの法律を違憲とした。憲法修正第1条が保証する言論の自由は、国旗の象徴的威信より重いと判断したのである。
ただし、1人の最高裁判事は 『痛恨の極みではあるが、国旗はそれを侮蔑し手にとる者をも保護している』という補足意見を付記した。
私はこの司法官の葛藤を健全だと思う。彼はアメリカ国民が星条旗に敬意を持つことを願っているが、それは強制によるべきではないと考えた。アメリカという国が全国民の敬意にふさわしい国家になれば、国旗への自然な敬意は生まれる。今、国旗に敬意を欠く人たちがいるのは、アメリカが敬意に値する国でないからだ。だから国民に国旗への敬意を求めるなら、まず敬意を示されるにふさわしい国を創り上げなければならない。国旗を損壊する市民を罰してみても、それによってアメリカは『敬意に値する国』にはならない。『敬意を示さないと処罰される国』になるだけである。
国旗に対する敬意を実現するために、ある人は『国民に対して国家権力を以て強制する』という方向に進み、別の人は『自然な敬意を持たれるような国を創る』という方向に進む。私は後者の道を進みたいと思う。
中略
もちろん、これは私の個人的な見解であって、一般性を要求しない。国旗国歌とどう向き合うか、それは国民ひとりひとりの判断に委ねられるべきであって、誰も強制することはできない。そして国民ひとりひとりの判断を尊重するだけの器量を備えた国の国旗国歌だけが、国民の真率な敬意の対象になり得ると私は考えている。いやがる国民に敬意の表明を強制するような国の国旗や国家が自然な敬意の対象になることは決してない。
ことは、原理の問題ではなく、程度の問題なのである。この先、日本がしだいに『ろくでもない国』になっていったら、ある日私は国旗に礼をするのも、国家を歌うのをやめるかもしれない。『昨日まで歌っていたのに、どうして今日から歌わないのだ』と誰かに詰問されたら、『境界線を超えたからだ』と答えるだろう。『もう歌うのが嫌になった』と言うだろう。
国家を歌うことができるほどの国なのか、そうではないのか。それを私は日ごと自分自身に問うようにしている。その緊張感を持続することの方が『いつでも歌う』『いつでも歌わない』とあらかじめ決めておいて、そのルールを守ることよりも、私にとっては国に対する構え として自然に思えるのである。そのような緊張感を持っている時に、祖国は私に最も身近に感じられる」と書かれていた
私は、内田さんの意見に賛成である。自民党政権時代に「国旗及び国歌に関する法」1999年(平成11年)が制定された。成立に伴う内閣総理大臣談話では、「今回の法制化は、国旗と国歌に関し、国民の皆様に新たに義務を課す者ではありません」としていたが、教育現場では職務規律違反などにより処分が行われてきた。
内田さんのように、私も今は、国旗に礼をしたり、国歌を歌ったりする。しかし、今の政治の状況を見ていると、この先私は国旗に礼をしたり、国歌を歌ったりするのをやめるかもしれない。政治家が政党助成金を得ているにもかかわらず、組織的にパーティ券販売で裏金を作り、また税金の中抜きを行い、手にした権力を濫用して私腹を肥やすことに熱中している姿を見て、こういう人たちが日本の政治家でいることに嫌悪感を感じる。ひとりふたりの政治家、一部の政治家だけの問題ではない。自民党政治家のほとんどは金まみれの政治を行いながら、そのくらい当たり前だという意識ではないか。追求されても口を閉ざすばかりで、真剣に応えようとする自民党政治家は一人も見ない。政治家は立場上日本の指導者である。多くの指導者が金にまみれているそのような碌でもない国に誰が敬意を表すだろうか。もちろん、選挙権を持つ者として、自分にも責任があることはわかっている。国旗国歌法は、自民党が国旗国歌に敬意を表すべきと声高く主張して成立した。そして今、国旗国歌に敬意を持つ国民の気持ちを失わさせている原因を作っているのは自民党である。それらを考えると自民党政治に強い怒りを覚える。