ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「中村哲という希望」を読む

中村哲という希望」を読んだ。佐高信氏が序文に次のように記していた。
「いま、日本は軍拡路線の岸田文雄を選ぶか中村哲を選ぶのかの岐路に立っている。軍備で暮らしは守れないことを中村は実践で示した。軍拡に賛成しない人、つまりは平和憲法を守れと叫ぶ人は頭がお花畑だとタカ派ならぬバカ派は叫ぶが、一触即発のアフガニスタンの地で、中村は丸腰こそが勇気だと激することなく語り、平和を作り出したではないか。そして、世界の人は中村に拍手を送っているではないか。その、いわば日本の宝をなぜもっと大切にしないのか。

 治安の悪いアフガニスタンで、中村は平和憲法が大事だと強調した。『平和憲法は世界中の人が憧れている理想であってね。守る努力はしなくちゃいけないんだ。』そう語った中村は亡くなってしまった。
 そして、今、この国の人たちは理想の平和憲法を改悪し、平和を作り出した中村を否定しようとしている。それでいいのか。いいわけないだろう。世界に誇れる平和憲法中村哲を改めて高く掲げて軍拡路線に対決しようと、この本は企てられた。」と書かれていた。

 中村医師が活動したアフガニスタン旱魃や戦乱によって荒廃し、特に2001年にタリバン政権が崩壊して以降各地で治安が乱れた。復興支援の名の下に活動する多くの海外NGOが治安悪化のため撤退するなか、中村たちの活動は「平和国家・日本」というブランドの信頼感に助けられて、何度も命拾いをしてきたという。アフガニスタンでは、日本は原爆を落とされた廃墟から経済大国になり、しかも戦後一度も他国に軍事介入したことがない称賛に値する国であった。
 すべての車両や診療所に日章旗を描いていたのは、住民の良好な対日感情を利用してテロ行為などのトラブルを避けるためだった。中村医師の活動にとって、「平和国家・日本」のブランドはまさに 死活問題だったのである。中村医師は言う「僕は憲法9条なんて、特に意識したことはなかった。でもね 、向こうに行って9条がバックボーンとして僕らの活動を支えていてくれる、これが我々を守ってきてくれたんだな、という実感がありますよ。体で感じた想いですよ。言ってみれば 、憲法9条を具現化してきた国のあり方が信頼の源になっているのです。」
 中村医師にとって、武器を使用せずに平和を実現する第9条は抽象的な「理念」ではなく「具体的に、リアルに、なによりも物理的に、僕らを守ってくれているもの」であった。平和憲法のありがたみを肌身感じた中村医師は、胸を張ってこう宣伝する。「世界に冠たる平和憲法を戴く一小国民として、私は日本人であることを誇りに思っている」
 しかし、中村医師をリアルに守ってくれていた安全保障が次第に怪しくなっていく。イスラム世界に身を置くなかで国際情勢と祖国日本の変化を逐次感じ取った中村医師は、その都度憂慮を発信している。最初の転機は、1991年1月17日に勃発した湾岸戦争だった。
「日本もまた、90億ドルをもって米英にならって参戦した。いや、日本国民は参戦という意識すらなく、米英に卑屈な迎合をしたとしか思えなかった。太平洋戦争と原爆の犠牲、アジアの民2000万人の血の代価で築かれた平和国家のイメージは失墜し、イスラム民衆の対日感情は一挙に悪化した。対岸のやじ馬であるには、あまりにも深刻だった。世界に冠たる『平和憲法』も『不戦の誓い』も色褪せた」
さらに、2001年、同時多発テロに続いて、米英軍がアフガニスタン空爆。これを日本が支持したことに、中村医師は強い怒りを見せた。
「米軍の空爆をやむを得ないと支持したのは、他ならぬ大多数の日本国民であった。戦争行為に反対することさえ、政治的に偏っていると取られ、脅迫まがいの忠告があったのは忘れがたい。以後私は、日本人であることの誇りを失ってしまった。何のかんのと言ったって、米国を怒らせては都合が悪いというのが共通した国民の合意のようであった。だが、人として、して良いことと悪いことがある。人として失ってはならぬ誇りというものがある。日本は明らかに曲がり角にさしかかっている」
 アメリカの戦争を指示し、資金を出すだけでなく、日本はアフガニスタン紛争、そして2003年からのイラク戦争と立て続けに自衛隊を派遣するに至る。中村医師にとっては、海外に軍事力を派遣しないことが日本の最大の国際貢献だったのだが、日本はとうとうそれを破ってしまい、本格的な戦争協力へと足を踏み出したのである。祖国日本に中村医師は厳しく 警告する。

憲法はご先祖様の血と汗によってできた一つの記念塔であり、平和憲法は世界の範たる理想である。それは日本国民を鼓舞する道義的力の源泉でなくてはならない。それは憲法というものであり、国家の礎である。祖先と先輩たちが、血と汗を流し、幾多の試行錯誤を経て獲得した成果を、古臭い非現実的な精神主義と嘲笑し、日本の魂を売り渡してはならない。戦争以上の努力を傾けて平和を守れ」

日本国憲法を紛争の地で実践した男、中村哲は逝ってしまった。車体に大きく日章旗を描いて活動していた中村医師が、日章旗を消した車で活動せざるを得なくなり、それで命を亡くす結果になったことを日本人として深く反省する。中村医師がいうように人として、して良いことと悪いことがある。いいかげん、日本国民も目を覚まさなければと思う。米国を怒らせたら都合が悪いという卑屈な生き方を変えて行かねばと思う。