ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「神なき時代の日本蘇生プラン」を読む その2

 安倍元首相の銃撃事件から統一教会問題が露わになった。統一教会という宗教団体が自民党を応援し、代わりに自民党の庇護を受け、霊感商法などで多額の資金集めを行っているということが判明した。統一教会は反社会的な詐欺集団でありとても宗教団体と呼べるものではないが、日本では宗教団体として認められていたことから、政治と宗教という問題がクローズアップされている。この著書は、安倍元首相と統一教会の関係が露見する前に出版されているので、統一教会については何も触れられていない。しかし、現状の日本の政治と宗教との関係についてのお二人の対話は大変参考になった。
 宮台さんはクリスチャンで、この本の中で、宮台さんが考えるキリスト教の祈りの二つの核について語っていた。「二つの核の第一は、『神よ、私が皆を裏切らぬよう、どうか見ていてください』です。第二は、『神よ、私はあなたのものです(間違えていたら地獄に落としてください)』です。つまり、第一は、祈りを捧げる相手が、自分が『救われる』ための神ではなく、皆のために突き進む自分を『強める』神であることを指します。自分が天国に召されることでなく、俗世で皆を裏切らずにいる『力』が神から与えられるのが、救済です。第二は、にも拘らず自分は、完全な神ならぬ不完全な人ゆえ、間違った善悪判断をなすので(原罪)、その際はあなたの判断次第で地獄に落として構わないと委ねることです」と語っている。

宮台さんは中学生の頃、教会で牧師さんが言った次の言葉が忘れられないと書いている「皆さんが思うのとは違って、生前にどんな良いことをしても、救われるとは限りません。良いことをすれば救われるのであれば、人は自分が救われたくて良いことをするようになります。神はそれを望みません」と牧師さんは言った。それから、宮台さんも神について考えるようになったそうだ。救われたくて良いことをするのを神が望まないということ、つまり「神は取り引きしない」ということを宮台さんはそこで学んだ。つまり良いことがあるから何かをするのではない。イエスの教えはいい事をすると救われるという戒律ではない。むしろ、良いことをすると救われるので、戒律に従うという考え方を持っている者はイエスから見るとクズです。困っている人がいたら思わず体が動き、心が動くような存在にしか神は関心はない。神と向き合って、恥ずかしい振る舞いをしてはいけない、自分が救われるために人を助けるようなことは恥ずべきことだという感覚がキリスト教を土台とする西欧社会にはある。宮台さんにとって、キリスト教は「皆を助けようという意欲を神が強めてくれる」とする共同体宗教であり、祈りは究極は個人救済ではなく、「私が皆を裏切らぬよう、どうか見ていてください」という祈りであると語っている

今、日本において、政治の腐敗が急速に進んでいる。そのことについて話は進む。
現在、日本が取り入れている近代政治システム(民主主義、間接民主制、議員内閣制など)は西洋でできたもので、そして、その西洋という社会はキリスト教をすべての前提として、構築されている。キリスト教という宗教を土台にしてできた社会では、公正という概念が社会の中で成立し共有され、社会の中で公正さが重要な要素として守られている。もちろん、近代的政治システムにおいても、キリスト教の存在が前提であり、キリスト教の公正が重要な要素として守られている。キリスト教を宗教として共有する世界においては、このような人々の規範が論理的に明確に作られている。それなのに、日本は明治期以降、政治システムは西洋から輸入したのに、その前提となっているキリスト教は輸入しなかった。だから、いわば西洋的政治制度という劇薬を、使用上の注意を読まずにただただ服用しているような状況になっている。日本ではキリスト教を導入しなかったが、それでも、昭和時代までは、日本にも宗教性が社会の中に残されていた。自宅に仏壇があり、毎朝毎夕手を合わせている家族の姿を見ることができたし、その姿を介して宗教を共有できた。お天道様やご先祖様に見守られているという感覚を持つ人も多くいた。しかし、次第に日本人は宗教から疎遠になっていった。そして今日、日本人から宗教性がなくなってきたことによって、日本人は向き合って自分を律するものを失っていった。律するものを持たない者は自己保身だけのクズが量産されることになる。同じように政治が宗教と完全に切り離されていく。そしてそれは、政治における善、すなわち政治を行う根本的目標の喪失を意味することになり、したがって、政治が単なる私利私欲を実現するための政治勢力ゲームに堕落することに繋がっていった。それが現在の日本における政治腐敗の元凶であり、日本社会に宗教性を取り戻すこと、宗教性の回復というのは、最も根本的で重大な意義ある公的実践であるとお二人は語っていた。

政治に宗教が入り込んで問題が発生したのではなく、日本人が宗教そのものを喪失したことで政治が堕落したという話である。お二人の話から、統一教会問題を考えると、宗教性を無くした日本人は本物の宗教かカルト宗教かの判断もできず放置したということになるのだろう。キリスト教では、神は取引しないといわれているのに、霊感商法を行うキリスト教をかたる団体を日本では野放しにしてきた。宗教団体とは言えない反社会的な詐欺集団である統一教会が日本では宗教団体として正式に認められてきた。ここにきて、宗教団体としての認定を取消すべきという声が上っているが、宗教心のない日本の政治屋は今も私利私欲で判断しようとしている。これも日本人が宗教性を無くした堕落した証明ではないかと思う。

戦前、日本は神の国ということで宗教によって国の形が歪められた過去がある。そのため、戦後、政教分離憲法原則として採用され、そのため国及びその機関は、宗教教育をしてはならないとされている。反面、次の世代が宗教を知らないで育つことが国民の宗教性の衰退につながっているのであれば問題であると思った。お二人の宗教の話を読んで、かつての国家神道教育の復活は絶対あってはならないが、人間として宗教を学ぶ、宗教教育の機会があってもいいのではないかと思った。