ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

中島川石橋群散歩

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所用で町に出かけた。用事を済まして時計を見ると、3時半である。夕暮れまで少し時間がある。折角だから中島川沿いを久しぶりに散歩することにした。

 

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中島川に向かって市民会館横を通っていくと見事な銀杏並木が見えてきた。市民会館の銀杏並木は毎年、長崎市民に秋の装いを楽しませてくれる場所である。銀杏並木を見ながら歩いていたら、隣の光永寺の銀杏を思い出した。

 

 

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光永寺の銀杏は、長崎市内の銀杏のきれいなスポットの一つに数えられている。この時間、先端だけ陽を受けているが、残念ながらほとんど影に覆われている。陽が燦々とふりそそいでいたら、なお素晴らしかっただろうと思う。この光永寺は、慶應義塾創始者である福沢諭吉(1835〜1901)が19歳の時来崎し、1年間滞在して蘭学を学んだ時に寄宿した場所である。この銀杏の木は樹齢450年超と言われているので、福沢諭吉はこの銀杏を眺めて勉強の疲れを癒したかもしれない。

 

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光永寺のすぐ前にかけられている橋は一覧橋である。中島川には多くの橋が架けられているが、一覧橋は上流から数えて第六番目の橋で、昔は第六橋とも呼ばれていた。この石造アーチ橋は、最初、明暦3年(1657)中国人の高一覧が寄付を募って架設したものであるが、享保6年(1721)の洪水で流失し、再建されて現在に至っている。高一覧は深見久兵衛と称して中国語の通訳など中国との貿易を担当する役人である唐通事を勤めた人である。明治15年(1882)最初の架設者にちなんで一覧橋と命名された。

 

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古町橋は中島川の第5橋である。この石造アーチ橋は元禄10年(1697)河村甚右衛門の母妙了(みょうりょう)によって架設されたとある。河村甚右衛門は当時の豪商であったようだが、何も伝わっていない。また、その母妙了によって造られた理由などもわかっていない。一説では妙了は夫を亡くし、出家して尼となり妙了と名乗り、橋造りは亡き夫への追善供養として行われたという説もある。享保6年(1721)の洪水で流失したが再建され、古町に架かることにちなみ、明治15年(1882)古町橋と命名された。

 

 

 

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左:現在の編笠橋      右:1970年台後半の編笠橋

中島川の第4橋である。最初、石造アーチ橋が元禄12年(1699)岸村氏夫妻によって架設されたが寛政7年(1795)の洪水で流失し、享保2年(1802)長崎奉行所によって再架設された。しかし、昭和57年(1982)の洪水で再流失し再々建されて現在に至る。岸村氏夫妻については何も伝わっていない。近辺が“あめがた町”と呼ばれたことにちなんで、明治15年編笠橋と命名された。

 

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桃谷橋は中島川支流の堂門川にかけられている橋である。延宝7年(1679)に僧侶卜意(ぼくい)が在留唐人の寄付を募って仮設した石造アーチ橋である。河畔に桃の木が多かったことから“桃谷橋”または架設した人物にちなみ“卜意橋”とも呼ばれている。

 

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眼鏡橋は中島川の第10橋である。眼鏡橋は我が国最古の石造アーチ橋で寛永11年(1634)興福寺唐僧黙子(もくす)禅師によって架設された。黙子禅師は中国江西省建昌府建昌県の人で寛永9年(1632)に日本に渡来した。川面に映るその姿から、古来より“めがね橋”の名で長崎の人たちに親しまれていたが、明治15年(1882)に正式に眼鏡橋命名された。

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左:現在の袋橋     右:1970年代後半の袋橋

中島川の第11橋。この橋は記録がなく、架設年月、架設者とも不詳。中島川の石造アーチ橋では眼鏡橋につぐ古い石橋という説もある。この橋は度々の洪水にも流失を免れ、壁面を整然と積む、長崎型石造アーチ橋の形態をよく残している。この橋は袋町に架かることから、袋町橋とも呼ばれたが、明治15年(1882)に袋橋と命名された。

 

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石橋を見ながら川沿いを歩いてきたら、「水害復興と友好の記念碑」という像を見つけた。説明読むと「昭和57年7月23日、長崎の街は想像を絶する集中豪雨により、死者、行方不明合わせて262人という大惨禍を受け、美しかった中島川石橋群も6橋が流失し、3橋が半壊しました。この碑は、中島川に石橋を架けるなど古くからゆかりの深い中国に依頼して製作した水害復興記念碑です。像は、不思議な能力を持った伝説上の中国の少年と元気な日本の少女が力を合わせて、風を呼び雨を呼ぶ巨大な龍を従わせている姿で、治水と日中の友好を象徴しています。」とあった。

 

石橋を見ていくと、長崎が日中貿易の港として、いかに中国と深い関係があったのかがよくわかる。眼鏡橋は日本で最古の石造アーチ橋であるが、これは中国人僧の黙子禅師が架設したものである。眼鏡橋に限らず、他の橋も架設者に中国の方の名前を見ることができる。日常生活に欠かせない橋を中国の方が募金を募ったり、費用を負担したりして架設するほどの密接な関係が昔からあったのだと石橋を見ながらしみじみと感じる。中国との長い友好の歴史をこれからも大事にしていかなければと思う。