ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

殿隠山・遠見山から観音寺へ

青点をスタートして赤点までのコース。距離6.69km、最低高度5m、最高高度263m、総上昇高度187m、消費カロリー1019kcal、天気晴れ、気温25度、湿度68%

殿隠山と遠見山を通って観音寺までの山歩きを楽しんだ。江戸時代から多くの人々に信仰されてきた観音寺の観音様、通称みさきの観音に参拝した。長崎から観音寺までの道は御崎道(みさきみち)と呼ばれて、江戸時代からみさきの観音へ参拝するための参道として多くの人が通った道である。今日の山道は昔の御崎道の一部である。

 

スタート地点の長迫バス停には路線バスで行く。このバス停を通るバスは1日3便だけで、ここは完全な過疎地である。ここで降りる人は私一人で乗る人はいない。バス停のペンキははげ落ちてかろうじて文字が読める。今日はここからスタートして山の中を通って観音寺を目指す。

 

歩き始めは林道に沿って進んでいく。今日は直射日光を浴びると熱い。しかし、林の中の林道は涼感もあり気持ちが良い。しばらく行くと草が繁茂している場所に出る。今日は藪漕ぎ覚悟で行く必要がありそうだ。

 

進んでいくと道が二股に分かれている。まっすぐ行きたいところだがよく見ると赤いテープが木に巻かれている。道はここから左の藪の中に入ることを示している。赤いテープや赤い布に助けられて進む。

 

道迷いしそうな時は、テープや布やペンキに注意して進む。三角点の石柱にもペンキで矢印が書かれている。方向はこっちで間違いなさそうである。

 

頂上が近くなってくると、道が草に覆われてわからない。方向は間違いないことを確認して藪漕ぎして進む。そしてようやく頂上到達。ここ殿隠山は、かつて平家の残党である三浦一族がこの山に隠れ住んだという言い伝えから名付けられたようだ。まわりは木々に覆われていて頂上からの展望はない。ここで小休止する。

 

殿隠山で休憩したあと、次のピークである遠見山へ向かう。頂上からしばらく降りたら細いがはっきりした道がある。尾根伝いにできた道を進む。遠見山も頂上近くになると草木が生い茂り藪になっている。ここでも藪漕ぎしながら山頂を目指す。

 

遠見山に到着。ここからの眺めを楽しみにしていたが、周りの樹木が視界を遮りここも360度展望なしである。10年くらい前に来た時は周りの木々はこれほど大きくなく、いい景色を楽しめた覚えがあるので残念だ。頂上はこぢんまりとした空間である。ここで休憩して次はいよいよ観音寺へ下りていく。

 

 

l遠見山から一気に250mを下る。下りが続く行程は楽ではあるが、場所によっては急勾配になっており、さらに落ち葉で滑りやすくなっている。滑らないように細心の注意をしながら降りていく。木々に取り付けられた案内に助けられて下りていく。

 

さらに、金比羅神社の参道である階段を下りていき、金刀比羅神社の鳥居に到着。ここから観音寺まではすぐである。

 

観音寺へ到着。観音寺の山門は石の門である。この門は、当時の中国の最先端技術であった眼鏡橋の築造技術で造られたと言われている。本堂へ行き観音様へ参拝する。

 

観音寺御本尊「千手十一面観世音菩薩立像」

このお堂にお祀りされている観世音菩薩像は高さ2.45m檜の一木造りの木造仏である。和銅2年(正歴709年)に僧行基によって建立されたものと伝えられているが、学術調査によると平安末期の仏像様式を示しており、今から千年前に建立されたものとされている。いずれにしても千年の歴史の中で人々の信仰に支えられ、人々に慈悲の眼差しを向けて寄り添ってこられた観音様である。

 

 

本堂に大きな扁額がかけてある。「悲慈」「通圆」(じひ・えんつう)は合わせて1対で「観音様の慈悲は遍く一切の衆生に及ぼされる」という意味である。この額は文政13年(1830年)貿易のために長崎に訪れていた中国人が観音寺に寄進したものである。当時日本との貿易が許されていたのはオランダと中国だけであった。中国に帰る船はここ脇岬で風待ちをした。そして、同じ仏教を信じる中国の人たちは航海安全を観音様に祈願した。この額は当時の中国人の信仰と中国と日本の緊密な関係を今に伝える歴史的資料である。

 

観音寺を出てゴール地点を目指す。山の方を振り返ると、遠見山がきれいな山容を見せている。そしてしばらく進むとゴール地点の脇岬海水浴場に到着。目の前に青い海が広がっている。大海原の先は中国である。ここで、観音様に航海安全を祈願した中国の人たちのことを思う。神仏の加護がなければ生きて帰れないという思いで一心に観音様に祈ったことだろう。観音寺で見た扁額の「悲慈」「通圆」の意味を改めて感じる。祈り続けるしかない。