ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「街場の成熟論」を読む (2)

街場の成熟論を読んでいて、現在の日本の指導者について書かれていた文章が気になった。本当だろうかと思いながら読んだ。現在、日本は米中間の戦争に備えて、防衛費を2倍に増額し、アメリカから大量の武器を購入して戦争準備に取り組んでいる。その日本の安全保障戦略を語る中で、その文章は書かれていた。

「日本が自前の安全保障戦略を持っていれば、自力で中国との緊密なコミュニケーションを立ち上げ、合わせて 国内の米軍基地の段階的縮小を進めて、中国の不安を除去するという政策を探るはずである。だが、今の日本の政治家にそれを期待しても無駄である。今の日本の政治家には見識がない。(中略)

 今の日本では指導層は政治家も官僚もビジネスマンもメディア知識人も、『世界のどこでも生きて行ける人たち(Anywherer)によって占められている。彼らは海外の大学で学位を取り、海外にネットワークを持ち、外国語を流暢に操り、シンガポールやハワイにセカンドハウスを持っている。そうやって日本が沈没しても、自分だけは生き延びることができるように着々と準備をしている。でも、『日本が沈没しても自分だけは生き延びられるくらいに目端の効いた人間』が日本の政策を決定すべきだというのは明らかに倒錯である。

 本来、国民国家の政策は『祖国でしか生きていけない。母国語しか話せない。自国の料理でないと物を食べた気がしない。自国の自然の中にいて、その宗教や伝統文化や芸能に触れていないと生きた心地がしない』という人たち、つまり『そこでしか暮らせない人(Somewherer)』のために起案されなければならない。
 そういう人たちなら、祖国を守ることは、そのまま自分の命と生活を守ることになる。そういう人たちを基本にして、そういう人たちが愉快に、健康に、豊かに暮らせるように努力することが国家目標であるなら、『祖国を守る』という言葉にはしっかりした手触りがあるだろう。
 だが、『どこでも生きていける人たち』には祖国を守る義務はない。どれほど同胞が貧しくなろうとも、他国に侮れられようとも、生態系が破壊されて居住不能になっても、『ああ、そうですか。それはお気の毒に』で立ち去ることができる。そんな人が指導層を形成していたり、オピニオンリーダーであるような国が総力戦である戦争などを戦えるはずがない。 

 個人的に能力が高い人はいくらもいる。だが、彼らはその能力を行使して得たものを『私財』として退蔵するだけである。退蔵どころか、公権力を私用に用い、公共財を私財に付け替える権利を手に入れたことに嬉々としている。エリートたちに才能があればあるほど、努力をすればするほど、その成果が社会的に評価されればされるほど、公共が痩せ細り、国運が衰微 していく。この逆説的なループの中に今の日本はどっぷりと嵌り込んでいる」と書かれていた。
 
 これは、日本の指導層について書かれた文章である。私の周りには外国に家を持っている人はいないので、書かれている指導者像が明確に頭に浮かばない。ピンとこない感じである。最初この文章を読んで小説を読んでいるような感じがした。実際的な話ではないのではと思ったりもした。
 しかし、今まで内田氏の著書を読んで、内田氏の内容は信じるに足るものばかりであることを知っているので、これが日本の指導者層の実態であると認識した。私の周りにはいないが、日本のエリート層と言われる現在の指導者層の実態は、このような人たちなのだと初めて知った。円安で日本円の価値が下がっていたときに、早くから日本円をUSドルに換金していて大儲けした人の話を、テレビ報道なのでしていたが、そういう人も指導層に近い人なのかもしれない。

 安倍政権以来、ネポティズムという身内びいき政治が蔓延した。彼らは、新自由主義経済の担い手である。彼らは、あらゆるシステムは民間企業のように経営されるべきだと言い立てて、教育や司法や行政や社会的インフラのような社会的共通資本まで手をつけていった。新自由主義が標榜するものは富の集中と格差の拡大である。現在の国力の低下というは彼らが推し進めた政策の帰結に過ぎない。その実態は公共財を私財に付け替えながら自分と仲間達の私腹を肥やすことしか頭にない指導者層の誕生である。そして、戦争であれ原発事故であれ、日本が荒廃し住めなくなれば、いつでも国を出ていけるし、国の衰退をなんとも感じない指導者層である。このような指導者層に日本の安全保障戦略を語らせるべきではない。早急に、自民党を解体しなければ、日本はいつまで持つかわからない