ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

「吹きさらう風」を読む

 書評家の長瀬海氏が、アルゼンチンの作家セルバ・アルマダの「吹きさらう風」について次のように書評を書いていた。
 「小説という概念は我が国では、リアリズムを追求することから始まったのだった。戯作文芸に特有な筋立てを否定し、感情や風景をそこにある機微そのままに描くこと。小説の真髄とは、その先に潜む人間の真実を探ることにあると考えることから、ここまできた。
 なぜそのことを思い出したのかというと、セルバ・アルマダ『吹きさらう風』がまさにそんな小説の原初的な可能性を高純度で抽出したような作品だからだ。わずか140ページの物語では、大事件が起こることはない。作為性に飛んだプロットが用意されているわけでもない。神父と娘の乗った車が故障し、老齢の整備工とその助手に修繕してもらう。その数時間の邂逅がただ描かれているだけである。
 しかし、本作が純粋で完璧な小説以外の何物でもないのは、作者が鋭い眼力で人間の真実を見つめているからだ。人を引き込む力のある神父。信仰とは責任逃れの手段だと考える整備工。母から引き裂かれた神父の娘。母に捨てられた整備校見習い。彼らの交歓の温かさ、心が通い会った後に起こる摩擦、それぞれの内面的な濁りや心のざらつきが、アルゼンチンの郊外の乾いた風景を細密に描写する中で立ち上がる。その着飾らなさ。その文学としての頑強さ。その芸術的な誠実さ。僕はそれを完璧な小説と呼ぶのにためらわない」

 私は、普段小説を読まない。私が読むのは主にノンフィクション作品ばかりである。しかし、小説の真髄はその先にある人間の真実を探ることにある。「吹きさらう風」はその着飾らなさ。その文学としての頑強さ。その芸術的な誠実さ。僕はそれを完璧な小説と呼ぶのにためらわないと長瀬氏は書いた。長瀬氏の書評を読んで、この作品は、間違いなく人間の真実を探る作品に違いないと思って読むことにした。読み終わって、まさに長瀬氏の書評通りの作品であった。短かくても中身の濃い作品であった。

 アルゼンチンで布教の旅を続ける初老の牧師が、車が故障したために、田舎の整備工場にたどりつく。牧師とその牧師が連れている娘、牧師と同年輩くらいの整備工の男、そして男とともに暮らす少年の4人は、車が直るまでの短い時間を、ともに過ごすことになる。その間に起こることを小説として書いているわけだが、テーマはさまざまである。布教する牧師と神を信じない整備工との対立からみた「神の存在」あるいは「宗教」という問題、また、母から引き離された少女と母から捨てられた少年からみた「母と子」の問題、また、「教育」または「子の自立」の問題など様々な問題が含まれており、読む人によってテーマは様々である。

 私は牧師が自分を回顧して語る中で出てくる言葉に驚いた。牧師は、小さい時に母によって、有名な布教師に預けられて、教会で教育を受けた。若くして頭角を表し教会の正式な布教師になった。彼の説教の才能はその地方一体では知られるようになっていった。彼は自分の口から出る一言一言を熱狂的に信じていた。言葉の礎となっているのは主キリストだからだ。宇宙の偉大な腹話術師が、彼という人形の口を介してみなに話を聞かせているのだという信念をもって彼はいつも語った。
 しかし、彼が説教壇からおりるたび、母は真っ先に駆け寄ってきて彼を抱きしめた。そして「みんなすっかりひきこまれていたよ」とウインクして言った。母は彼が嘘をついている。息子は大嘘つきだ、言葉への並外れた才能のおかげで、住む家とお金と食べ物をもらえていると思っていた。だが、そう思っていたのは母だけではなかった。上位の聖職者や、彼を育てた布教師までもが、金の卵を産む鶏にめぐりあったと思っていた。彼の口から出る一言一言で教会の献金箱に硬貨の雨が降りそそぎ、紙幣が降りつもった。息子の目指すものを最初に誤解したのは母だったが、いくらもしないうちに母は亡くなり彼は心から安堵し、神様どうぞお許しくださいと祈った。牧師を生活のための職業として考えると母親や上位の聖職者みたいな考え方になり、牧師を宗教に殉ずる職業として考えると主キリストの腹話術の人形になるのだと思った。同じ牧師でも中身は雲泥の差があるようだ。

数時間の邂逅場面から多くのテーマを描けるのは作家の問題意識や深い洞察力があって初めて成し得るものである。機会を見てまたいい小説を読みたいと思った。