ばってん爺じのブログ

年を重ねても、尚好奇心旺盛な長崎の爺じの雑感日記。長崎の話題を始め、見た事、感じた事、感動した事などを発信。ばってん爺じのばってんはバツイチではなく長崎の方言

日本における民主政治教育

 戦後日本の長きにわたって政権与党であり続けた自由民主党は今、統一教会との深い長い関係、そして裏金問題と利権政治など様々な問題があらわになっている。もはや自民党の再建は不可能という声さえも聞こえるようだ。自分の金儲けという利権政治しか興味のない人間を支持し、そのような者だけが集まった政党を日本国民は今まで支持していたことになる。どうしてこのような政治家や政党ができたのかと嘆きたくもなるが、「政治家や政党は国民のレベルにあったものしか出てこない。このような利権にまみれた政治家しか出てこないのは国民の政治レベルが低い証拠である。このような政治家や政党を生み出したのは国民の責任である」という意見を聞いた。
 確かに、私たち国民の政治意識が低いからと言われたら何も言えなくなってしまうが、先日、元文部省官僚の前川喜平さんの民主政治教育の話を聞いていてなるほどと思った。
前川さんの話は以下の通りであった。
「健全なデモクラシー教育、これは教育に関する問題ですから、確かに文部省に責任があります。文部省は政治教育に非常に消極的だったし、今も消極的です。しかし、これは長い保守政治が続いたことによって、そのようにされてきたことです。文部省の上には必ず上位の権力がいます。戦前であれば上位に内務省があり、文部省は内務省文部局と呼ばれました。戦時中は陸軍省文部局で、戦後すぐはGHQ文部局、55年体制以後は自民党文部局と言われています。文部省は上位の権力によって動かされる役所です。例えば昭和30年代以降、教職員の政治活動は禁止という方向で、厳しく教職員の政治活動を締め付けて、やるなと指示指導してきました。教職員に対して、政治活動したら処分するぞという姿勢で締め付けました。政治的な中立性という偽名の下で、教職員団体の政治活動を抑え込むことをずっとやってきました。教育基本法の中には、政治的教養に関する教育は大事であると書かれていますが、しかし、党派的に一党一派を支援するような教育は禁止すると書かれています。いわば、政治についてはちゃんと教えなさいと書いてあるが、一党一派に偏することなくやることが難しいことから、結局政治的中立性を守れという言い方で政治教育そのものを抑え込んできた経緯があります。
 ドイツには『vtrusバッハコンセンサス』という1976年にできた政治教育についてのガイドラインがあります。日本の文部省の指示は、授業の中で教師が自分の主張や意見を、例えば憲法9条は守るべきだとか変えるべきだとか言ってはいけないこととなっています。これが日本の政治教育の方針です。しかし、ドイツでは、教師は自分の主張、意見を言って良いとなっています。同時に、反対意見も同じ比重で伝え、このように論争があるということを生徒にそのまま教え、あとは生徒自身が考えるという方法をとっています。これがドイツとの民主政治教育の違いです。
 ドイツは、生徒の主体性を重視する教育であり、生徒に考えさせる教育方針です。反面、日本の文部省は、教師が生徒に対し強い影響力を持っているから、教師が右と言ったら生徒は右へ、左と言ったら左へ行く。だから、教師は右も左も言うなと言う方針です。これは日本の生徒には主体性がないと考えているからです。そこが元々間違いであり、主体性を活かした、君たちは自分で考えなさいという民主政治教育がなされていません。

 このような、教師が自分の意見を言えない教育方針のもとでは、教師は怖くて何も言えなくなるし政治教育ができなくなる仕組みになっています。政治的見解を何ももっていない教師であれば、日本の政治教育はできますが、そのような政治に見解を持たない人が政治教育などできるはずがないし、政治教育ができるくらいの先生は、もちろん自分の中に政治的意見を持っている人でないとおかしい。政治的意識の高い教師ほど日本の政治教育がし難くなっている現状ですと話されていた。

 民主政治教育は重要と言いながら、できるだけ民主政治について生徒に教えず、考える機会を与えないように仕向けられてきたのが日本の現状である。選挙の時に「有権者は投票に行かないで寝てて欲しい」と言った自民党の首相がいたが、まさにそのような政治家の期待通りの民主政治教育がなされてきたのだと思った。そして現在の低い投票率はその結果だと思った。自民党政治を早く終焉させないと、私たちは民主政治を学ぶ機会さえも無くしてしまうと思った。