むのたけじさんは私が敬愛する人物の一人である。先日、長崎新聞に「鎌田慧の忘れ得ぬ言葉」という記事が載った。そこにはむのたけじさんの言葉があった。
ご存知の方も多いと思うが、むのさんは元朝日新聞の記者で、20代の頃のむのさんは朝日新聞の従軍記者として侵略戦争のまっただ中で取材に走り回っていた。その後、東京本社社会部記者として戦時日本の中枢部の動きを取材して報道するなどしてきた。終戦時30歳。家庭があった。それでもひとり退社した。敗戦を機に1945年8月15日、太平洋戦争の戦意高揚に関与した責任を取り新聞社を退社した。その後は秋田県横手市に帰郷してタブロイド版の週間新聞「たいまつ」を創刊して、反戦の立場から言論活動を続けた方である。
2016年8月23日、むのさんは101歳で肺炎のため亡くなった。その3ヶ月前の5月3日東京有明の防災公園で行われた憲法集会で、むのさんは約5万の聴衆に向かって語りかけた。
「今日の集まりは戦争を絶滅する、その目的を実現する力をつくる集会です。」メモなし、マイクがなくても会場に届くような大音声であった。「この憲法9条こそ、人類に希望をもたらす。私たち古い日本人はそういう受け止め方をしました。そして、70年間、国民の誰をも戦死させず、他国民の誰をも戦死させなかった。道はまちがっていない。」「この理想が通るかどうか、それはこの会場の光景が物語っています。若いエネルギーが燃え上がっているではありませんか。いたるところで女性が立ち上がっているではありませんか(大拍手)」101歳、体内から発する10分間の熱弁であった。
むのさんは新聞記者として従軍し、ウソをホントと言いくるめるコトバへの憎悪、モジへの呪咀を痛感した。以来、郷里の横手に帰り、ウソをウソと言い、ホントをホントと言えるコトバの真実を求め続けた。
むのさんは、「詞集たいまつ」を上梓している。「詞集たいまつ」にはむのさんが見聞し思考してきたことを短句にまとめたものである。この「詞集たいまつ」の中にはむのさんが全体重をかけて語るコトバ、むのさんの経験の重さが込められたコトバがある。私は人生を振り返る時、むのさんの「詞集たいまつ」を紐解き自問自答する。むのさんのコトバのいくつかを記す
「死ぬとき、そこが人生のてっぺんだ」
むのさんが85歳にときに書いた。たしかに、それから101歳死ぬ瞬間まで、てっぺん目指して奮闘の人生であった。私もむのさんみたいに「死ぬとき、そこが人生のてっぺんだ」という生き方をしたいと思う。
「理想を持たないために滅びた民族はあるが、理想を持ったために滅びた民族はない。」
日本国憲法の平和主義は理想すぎる、という人がいる。理想でできた憲法でいいではないか。理想のような世界を作るために、国として世界の先頭に立って歩んでいければ素晴らしい
「忘却による過誤を犯したくないなら、いつでもむすこたちをみつめながらものを考えることである」
いま現在の社会は、子や孫に残し伝えるにふさわしい社会だろうか。この社会を受け継ぐ子や孫は幸せになれるだろうか。大人として子孫のためにやるべきこと、なすべきことは多い。
「ジャーナリストの資格は、常にキバのある雑草の一本であることだ」
権力からキバを抜かれたジャーナリストがなんと日本には多いことか。この言葉から日本のジャーナリストを考えるとき、ジャーナリストという言葉が死語もしくは絶滅危惧種になっているようだ。
「うつむき加減で揉み手をしている男と、腹を突き出してそっくり返っている男と二人をマンガに描けば二人とも日本人であることは、説明なしでもアジアの諸国民にわかる。二人が実は一人である」
国内にいるとわからないが、アジアでは、世界では、日本人は卑屈で尊大と思われているようだ。この先、そのイメージがさらに悪化するのか逆にイメージが良くなっていくのかわからない。世界から信頼される国民になりたい。